バジル・ホール

メモや備忘録として使っているノートをパラパラとめくっていたら5年ほど前に読んだイギリスの探検船の船長、バジル・ホールの書いた「Voyage to Loo-Choo,and the other places in the Eastern Seas」という本の1ページほどのメモが出てきた。

 

タイトルに「琉球への旅と東アジア海のその他の土地たち」とあるように、1816年、最初に中国を訪れ、朝鮮半島を経由して琉球にやってきた航海日誌である。

 

 

翌年にはイギリスへ戻る際にセント・ヘレナ島に流されていたナポレオンと謁見して琉球を武器のない国と紹介、ナポレオンをして「そんな国があるとは信じられない」と言わしめたというエピソードが有名である。(もちろん、琉球にも武器はあったし、貨幣もあった。なるべく穏便に帰って行って欲しいということからの親切であったが)

 

バジル・ホールはその他にも貨幣がないとか、琉球をユートピア的に誇張して書いてあり、こそばゆい気がするがその前に寄った中国では野菜を積んだ荷車にお金を払い、船に届けるように伝えると、はたしてその荷車はトンズラしたり、朝鮮半島ではその官僚的な扱いに苛立ちを隠さなかったことなどが描かれている。

 

その後に着いた琉球では食料補給もお金を受け取らず、やってきた外交団の面々もそれぞれ個性豊かな人情味のある役人たちで好感を抱いている。

 

島に上陸した際に子供たちがトンボ返りをして遊んでいるのを見かけ、もう一度見たいからやってくれとお願いすると、子どもたちは恥ずかしがってやらない。随行している役人の一人に何かをあげるから見せてくれるように頼むと、「この子達は自分の楽しみとしてトンボを切って遊んでいたのであって、無理強いはいけない」と言われて、その大人の子どもに対する扱い一つを見て、文明的、教育的な教えを垣間見たなどと感心している。

 

あるときは、子供が駆け出して来て通りすがりに「Good afternoon,Thank you,Good by」と声を掛けて逃げていったことがあったそうである。通訳として船に出かける役員の子供だったのかも知れない。

 

藁葺の粗末な農家に立ち寄ったら老人がいて、お茶をたてて勧めてくれたとか、ある夜小舟(サバニ)が船に寄ってきて、捕れた魚をプレゼントされてお金を渡そうとしたら断られて、小舟はゆっくりとだいぶ遠くまで歌を歌いながら船を離れて行ったというエピソードも書かれている。

 

琉球側の使節として船を訪れ交流するのはMaddera(真栄平?)、Okuma(奥間?)Jeeroo(ジルー)なんてのがいる。

 

いずれも人懐こく、沖縄の黄金言葉「イチャリバチョーデー(出逢えばきょうだい)を遺憾なく発揮している。(笑)

 

酒好きでキセルを使った酒を飲むゲームをしては冗談を言い、笑っている。歌を歌いながらテーブルの周りで踊りだす。その踊る描写に手を上げ首を左右の方に付けるように振り、足で拍子を取りコーラスするとある。これはいかにもカチャーシーを踊っているのではなかろうか。

 

また乗組員が輪になってダンスをしているところを一人追い出して自分が輪に入り、上手にステップを踏んで踊りだしその上手さに驚いている。

 

船は多分2〜3週間の間しか停泊してなかったと思うが、琉球側、イギリス側の言語能力の高さに驚かされる。

 

中国をを話せる通訳が船にはいたようだが、Jeeroo(ジルー)と船長との間で交わされたウチナー口も記録されている。

 

船長「Ya weetee?君は酔ったのかい?」

ジルー「Weetee nang(酔ってない)

 

船が沖縄を離れる際に船長は頭脳明晰な28歳という若者、真栄平に対してイギリスに行って教育を受けてみないかと提案している。

 

その時に真栄平が英語で返した返事には胸を打たれるものがある。

 

「No,no,me no go. me father cry,me mother cry, me children cry,me no go.」さらに続けて「Tomorrow ship go sea-I go my father house two days distant.-When I see my father I show him your present,and I tell him, Henry Hoppner all same as my brother,: and burst into tears.とある。

 

さらに泣きながら「Eedooshee, Eeedooshee(いい友達、いい友達)」

Ingrey noo choo sibitty yootusha(イギリスの人はすべていい人だ)

 

と答えている。