ベトナム帰還兵

先日、自然愛好会主催のハイキングに出かけた。30人以上の人が申し込まれたようだが16人限定でそれにガイドと主催者の方を含めて18人の参加者だった。

 

知っている方は3人いたが後はオーランドや他の地区の愛好会メンバーの方たちで知らない人たちだった。

 

ハイキングと言っても植物や昆虫を見かけたら立ち止まってそれに関する説明があり、それほどの距離ではない。メンバーの方も結構詳しい人が多いようだった。

 

80歳くらいかと思った男性が珍しいキノコや昆虫がいると立ち止まって待っていてくれて写真を撮ったらと勧めてくれる。

 

歩きながら話しかけてきて、ニューヨークのクイーンズ出身の72歳の方で1966年に18歳で徴兵されベトナムへ送られた元兵士だということがわかった。沖縄、日本へは戦争の合間の休暇で滞在したことがあるそうだ。

 

2年だけで退役したそうだが、ベトナムではヘリコプターに乗り、負傷兵を運ぶことが任務で彼は機関銃を持ち救護班を護衛する役目だったという。かなりのベトコンを撃ったことが今だにPTSD(心的外傷)として残っているということだった。

 

お昼にピザレストランで食事を一緒にした。旅行が趣味で世界100ヵ国ほどを旅したそうで、特にベトナムには1993年に長期滞在、奥さんがその旅行記を大冊の写真アルバムと文章にして発刊されていた。

 

帰りがけに駐車場で車のトランクに入っていたその本を見せてもらった。ナパーム弾で全身やけどを負い、裸で道路を走って逃げる有名な少女の写真と、その本人へのインタビューなどもあった。

 

18歳当時のその頃は若いというよりまだあどけない顔つきの旦那さんが赤十字の大きなマーク入りのヘリの搭乗口に腰掛けて写っている写真も挿入されていた。

 

10年ほど前に「ヒッチハイカー」というベトナム帰還兵の創作話を書いたことがあるが、多分僕が高2の夏に出会った米兵も同じ年齢くらいの方だったろう。

 

小学校低学年まで住んでいた近所に母親がアメリカ人と再婚したせいで後に徴兵されてベトナムで戦死したという8才年上のたくみという名の男性がいた。

 

3女姉と同年で小学校では同級だったらしい。僕が小学校へ上がる前で松川小学校が丘を切り崩して作られる以前だから5才くらいの頃か。たくみに連れられてその丘に登ったことがあった。

 

たくみはジャックナイフを持っていて、急坂に滑り止めの刻みをいれて僕が登りやすいようにしてくれた。もうその頃に母親は再婚していたのかも知れない。

 

しばらくしてたくみの姿は見えなくなった。

 

しばらく断水が続いた僕が小学校1〜2年の頃に、庭に大きな貯水タンクが2基置かれたたくみの実家にお婆さんのいいつけで水を貰いに行ったことがあった。

 

玄関に出てきたのはたくみだった。水を貰いに来たと告げると、大きな声で多分「マミー、ワーラー、ワーラー」と声を掛けながら奥に引っ込んでいった。たまたま母親の実家に戻っていたのだろう。

 

あれがたくみを見た最後だった。