タイ・インド・ネパール旅日記(5)Yahooブログより転記

タイ・インド・ネパール

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ボンベイ(21)

2007年11月05日11:01 
 3月18日(金)の続き 

 午後のことである。国内便の予約にインディアン航空の事務所へ行こうとタクシーを停めると、僕らが停めたタクシーにたまたま前に居た地元のカップルがタイミング良く乗り込んでしまった。合図をして停めたのは僕らなので文句を言うとどこへ行くのかと聞かれ、インディアン航空の事務所だと答えると、同じ所なので相乗りするよう勧められる。 

 連れの女性は男の奥さんで銀行に勤めており、自分はインディアン航空のスタッフだと自己紹介した。しかし、車の中で女性の持っている皮製のバッグを買わないかと聞いてきたのでいぶかしく思う。だが実際に航空事務所に着くと、男はスタッフしか入れない部屋に入っていくや僕らもその中に招き入れたのだった。 

 さらに驚いたことには、男は机の前に座ると、コンピューターを操り僕らのチケットの予約手続きをその場でしてくれた。事務所のカウンターは客で混みあっていたので大いに助かった。あまりのタイミングのよさと運の良さになにやら狐につままれたような気分であった。 

 チケットの予約に行く為に停めたタクシーに先に乗り込んだのがそこのスタッフで、しかもタクシー料金まで払ってくれたのだった。これまで施しを乞われるのが常であったが、今回はインド人にタクシー運賃を施して貰ったのだった。 

 ホテルに戻る前に、ショッピングセンターへ写真を取りに行く。店の前に赤ん坊をおんぶした裸足で汚い格好の10才位の少女が立っていた。乞われた訳ではなかったが、感情まで無くしたような生気のない顔に思わず5ルピー紙幣と飴玉を手渡す。 

 夜は8時半頃に、タクシーに乗ってヴィクトリア駅近くにあるフォートマーケットに行く。ちょうど店を閉め始めたところだったが、人出の方はまだかなりあった。 

 そのマーケットは衣類の店や露店がほとんどで、気のせいかイスラム教徒の特徴のある帽子をかぶった商売人が多い。マーケット内を歩いていると、若い男がやってきてガイドを申し出た。断わっても後から着いてくる。ほんとにいいからと何度断わってもまだしつこくついてくる。悪気はなかったのかも知れないが気味が悪いので、その男を振り切るように市場を抜け出て近くの駅構内に逃げこんだ。 

 マーケットから駅までの通りの脇は寝支度をしている人達でいっぱいだった。駅構内はさらに多くの人達で埋っていた。駅の構内なので電車待ちをしている人達も居るのだろうが、すでに床に寝込んでいる人たちも多く、そこを寝ぐらにしている人の方が圧倒的に多いのではないかという感じであった。 

 乗ったタクシーは故障しているのかヘッドライトをつけないまま運転していた。暗闇でも目が利くのだろうか。それに信号待ちには車のエンジンを切る。夜は交通も少ないのでエンジン音が止まるとシーンと気まずい空気が流れる。スピードを落とさずカーブを曲がったりと、ラフな運転ぶりである。もっとも僕らが変な運転手にあたっっただけの事かも知れない。

  

2007年11月04日22:33   
3月18日(金) 

 朝9時、インド門前の船着場からエレファンタ島へ渡る。チケットを買うときに並んでいた英国人のおばあさんの二人連れと家内が話し込んでいる時に、14~5才のインド人の少年が傍に立って、ちらちらとおばあさんのバッグに目をやっている。 

 その少年と目と目が合ったときにジェスチャーで駄目だよというふうに首を振ると寂しそうに右手で例の胸元から口へ食べ物を運ぶ仕草をした。幾つかのコインと飴玉をポケットから取り出して渡す。 

 そのおばあさんは若い頃にインドに住んでいたことがあるそうで、今でも時折、旅行で来るのだそうだ。インドの夏場の暑さや雨期の話などをしていた。年をとっても体さえ丈夫であれば多少のきつさも平気で旅行出来るものなんだとそのお婆さんを見ていて頼もしく思ったものだ。 

 1時間程でエレファンタ島に着く。桟橋を渡り、石段を登り詰め、小高い丘にたどり着く。途中、4人のインド人男性に担がれた輿に乗って降りて来る老年の男性と擦れ違う。やはり年寄りには酷な坂である。 

 丘の上には岩山をくりぬいて作られたヒンドゥ 教の神殿があり、入り口に大きな石の象の彫り物があることからこの島自体がエレファンタ島とよばれているとのことだ。洞窟内部には巨大なシヴァ神の像などがあって、かなり写実的に彫られている。奥の方にはリンガと呼ばれる男性自身を象ったつららのような石があり、その周りを何人かのインド女性がまわりながら祈っていた。大体、七世紀ごろの遺物だそうだ。 

 1時にはインド門前船着場に戻る。昼食後、ホテル近くのショッピングセンターで写真の現像と焼き付けを頼む。24枚撮りで187ルピーはインドの物価と照らし合わせると高い気がする。観光地ではやはり観光客に合わせた値段になっているのかも知れない。 

ホテルの部屋で少し休み、ユナイテッド航空の事務所とタイ航空の事務所へ行って、帰りのチケットの手続きをする。 

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○ハラ 2007年11月04日 23:32 あんらぎさん、 
そう言えば年寄りの旅行者を東南アジアのあちこちでよく見かけました。 
確かに、ヨボヨボの感じで足取りもおぼつかないような人も何人か見かけたような気がします。 

でも、周りの人が結構協力していて、ドアを開けたり、乗り物を呼んだり、親切にしている感じでした。 

やはりお年寄りを大事にして居るんだなあと感じました。 
ただ、これは白人の旅行者の場合で現地の年寄りが大事にされている光景はあまり見かけませんでした。 

現地では、年寄りは引っ込んでいろ、なのか、たまたま年寄りが外出していなかっただけなのかは知りませんが、白人の方に対しては、年を取って海外へ旅行できるほどの体力があるのはうらやましいと思いました。 

年寄りは大事にしないといけません、そうで無いと、インドではシャカ恨みされるかも知れません。 あんらぎ 2007年11月05日 00:01 ○ハラさん 
確かに白人のお年寄りに対して現地の人たちも割りと親切に接しているなあと思うのは、彼らにはチップの習慣があるので、その見返りがチップとして帰ってくるという暗黙の了解があるのかも知れませんね。 

でもいくら年寄りだからといって、必要以上にちやほやあれこれ何にでも手助けすると小さな親切大きなお世話になり、ホットケと言われたりするかも知れませんね。 

それと、これは年寄りではなく白人の身体障害者のグループなどがやはり車椅子でツアーを組んで旅行をしているのを見たこともあります。日本だとやはり体の自由が利かない年寄りだとか身体障害者の方は家の中に閉じこもりがちになる傾向が強いようですが、身体障害者も堂々と表に出て歩いていたり活動したりしているのはインドのような開発途上国や、もしくは人権意識の発達した欧米諸国の人たちが多いような気がしますね。

  

ボンベイ⑲

2007年11月03日21:32  3月17日(木)  
  朝8時半起床。窓の外を眺めると、左の方に川が流れていてその向こう岸には15~16階建ての団地が30棟以上も立ち並んでいるのが見える。 

 ホテルの目の前にはTHE ARCADE と書かれたショッピングセンターのビルがあり、その裏手にはちょっとした空き地とバラック建てのスラムが雑然と広がっている。トタン屋根で葺かれた小屋があるかと思えば単にテントだけだったりと様々である。 

 時折、それらの小屋から子供や大人の男性が空地のほうへ出てきてはしゃがみこみ用を足しているのがうかがえる。 

 ホテルの右側は25階建ての高層マンションに囲まれていて、それらのビルの谷間越しにボンベイ湾がわずかに見え、さらに海岸が湾曲していったその先には25階建てほどの高層ビル群が望まれた。 

 そうやって午前中周りを観察している合間も家内は電話で新たなるホテルや飛行機やらの予約に忙しい。電話回線が混線気味でコミュニケーションを取るのがかなり大変だったようである。 

 午後はインド門から2時にスタートするバスツアーに参加する。(一人、55ルピー) 
 プリンス・オブ`ウエールズ博物館 - マリンドライブ - チョーパティ海岸 - マニーバンバン(マハトマ`ガンジー邸)ー ハンギング庭園 - 沈黙の塔 - 科学博物館 - 水族館と観光して6時にインド政府観光局前にて解散する。 

 ガンジーの住んでいたという家では彼の履いていた親指と人差し指で挟むようになった突起のついたサンダルや彼が使っていた糸紡ぎ車、手紙などの資料などを見学する。 

 沈黙の塔というのは説明によれば鳥葬が現在でも行われている塔ということだった。遺体を金網を張り巡らした塔の上に置いて鳥にその肉体を食べさせる。鳥が食べた後の遺体の残りは金網の下に落ちてそこから続く下水道を通って海に流れていく仕組なのだそうだ。 

 その葬儀を行う人達はその昔、ペルシャから支配者としてやってきた上流階層のカーストの人たちで現在もインドの経済界を牛耳っている人達が主だというのだから驚かされる。 

 科学博物館では近代的な台所のモデルケースといった展示コーナーを見た。ステンレスの流し台に冷蔵庫などが備わっていて昭和30年後半に日本でも理想とされた清潔な台所の標準モデルといった感じである。ガスコンロが普及する前には僕の家でも使っていた石油コンロが置かれていて懐かしさをおぼえたのだった。 

 ボンベイ市内でも有名だというタージ・マハールホテルへ行き、中を見学する。その後一階にあるハーバー・バーでビールを飲む。欧米作家などもよく来たという歴史的にも有名なバーだそうである。 

 その後、商店を覗きながらバザー通りをぶらつきタクシーでホテルへ戻る。部屋を1106から、眺めのいい海側の1419号室に変えて貰う。 

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○ハラ 2007年11月03日 22:39 あんらぎさん、 
私がハイデラバッドでさえ感じた、インドは人が多いなあ、という感じは、ボンベイだと半端じゃないでしょうね。 

道が特別狭いとは思わなかったハイデラバッドの道路で、人が道路一杯に我が物顔で歩いていましたから、ボンベイだと人の間に地面があるという感じでしょうね。 

私はたまにボンベイとポンペイがごっちゃになります。 
今は片方はムンバイと名前が変わりましたから良いですが、以前は、「ええと~」とボンベイの名前を口に出す前に頭の中で考えていました。 
でも、ガス・ボンベのボンベと、幕末に来て日本の医学に貢献したポンペとはごっちゃになりませんよ。 あんらぎ 2007年11月03日 23:55 ○ハラさん 
田舎道や村、GTロードというパキスタンを抜けヨーロッパまで続く国連が敷いた幹線道路などはそんなに人も見かけない田舎でしたが、やはり町や都会など特に市場などは何でこんなに人出があるのだろうかというくらいの混雑ぶりでしたね。 

それも町なかを歩いているのは男性がほとんどのような気がしました。男子7歳にして席を同じくせず、論語ではないですが多分そんな感じの生活習慣があるのかも知れないですね。 

そういえばリチャード・ギアが最近インドに映画のプロモーションか何かで行って、そこのイベント会場でインド人女優に派手にキスするというパフォーマンスをして国外退去だか、謝罪要求をされていたようですね。 

ポンペイとボンベイ、ポとボの違いだけでホボ同じですね。インド人が落語家になったら林家ポンペイという名前だと売れるかも知れませんね。

  

2007年11月02日21:44  3月16日(月)の続き 

 ウダイプアー空港を夜の8時50分に飛び立ち、9時50分にはボンベイに到着する。しつこい赤帽(許可の無いものの方が多いようなので白タクならぬ白帽とでも言おうか。)の攻撃をどうにかかわして、空港から直接タクシーでタジマハールホテルへ直行する。 

  予約を入れてなくしかも満室ということで宿泊を断わられるが、マネージャーの紹介でラージグループのホテルの一つであるプレジデントホテルにチェックイン出来た。 

 ボンベイはかなり大きな街のようだ。空港からホテルまで約40分、その間暗い街並が延々と続く。 

 時折、羊の群れが羊飼いに追われながら薄もやの中を車のヘッドランプに浮かび上がる。街なかを走っているのかどうかも外が暗いので判然としない。幻想的な気分だ。 

 ある交差点でタクシーが信号待ちで停車したら、暗闇から上半身裸の片足は付け根から無い若い大きな男が、自分の背よりさらに長い棒を杖にしてピョンピョンと飛び跳ねながら駆けよって来た。 

 窓を叩いてジェスチャーで施しを頼んでいるのだが、こちらとしては正直言って突然の事に驚くばかりであった。こちらの心構えというか、準備ができていなくてお金を渡せなかったのは心残りではあるが、ゴリラのように頑丈そうな胸板の厚い若者だったのでそれほど哀れさを感ぜずにいられた。 

 タジマハールホテルからプレジデントホテルに行くために、タクシーに乗り込もうとすると、赤ん坊を抱いた若い母親がいかにも自然な感じで寄ってきて施しを求めた。声を出すのではなく、右手の親指と人差し指で食べ物をつかむように胸から口元へ上目づかいに優雅に動かすのである。 みなりも黒っぽいサリーで乞食には見えなかった。思わず5ルピーを手渡す。 

 ニューデリーでも明らかにライ患者と分かる、手や足のない物乞いを何人も見かけた。だがこちらに来る前に読んだ本から想像していたことが拍子抜けするほど、意外と少なかった。開放政策やなにやらでインドも徐々に変化しているからと単純に思っていたのだ。  

 ところが新聞によれば、ニューデリーでは官庁街や観光地といった所では物乞いの禁止と浮浪児狩りといったキャンペーンを行っている最中とのことだった。 

 それらの子供達の稼ぎにしてもそれぞれに縄張りが決まっていて、結局はマフィアの組織のように上層部へ吸い取られる仕組なのだそうである。 

 事実であって欲しくないが、より同情を集めるためにはさらって来た赤ん坊の手足をもぎとったり、目を潰したりといった蛮行も昔はあったそうである。  
*ボンベイも名前が現在はムンバイになってますね。当時はまだボンベイだったような気がします。インドのハリウッドと言われているボンベイでハリウッド映画のようなミュージカルが流行ったのは僕らが行った後だったと思う。映画が庶民には大変な人気があり、昔の日本の映画全盛期を思わせるようなものだったのかも知れない。ちなみにインド人女優の美人の条件はぽっちゃりしていることと聞いた覚えがある。それが裕福なイメージになっているのかも知れない。 

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○ハラ 2007年11月02日 23:26 あんらぎさん、 
インドの子供が、同情を引くために手や足を切られたり、目をつぶされた、という話が本当で無ければ良いんですが。 

日本でもこれほどでは無いにしても、江戸時代の農家では必要人数以上を妊娠すると中絶され、生まれても口減らしのため、男の子は丁稚か何かの奉公に行かされ、女の子は女郎に売られた、という話があるようです。 
もちろん例外はあったようですが。 

現代の時代劇映画では、たまに現代風の感覚で、女郎になっている女の人を郭から逃がして故郷に帰してやる、と言うのがありますが、これがもし本当の話だとしたら、女の人にとっては大迷惑な話です。 
女郎として温和しく言う事を聞いていれば、まだ少なくともご飯は食べられたはずです。 
故郷に帰っても女の人には居場所がありまえん、余剰人員だから家を出されたのですから。 
一旦逃げてしまったら郭にはもちろん帰れません、足抜け女郎ですから、命は無いでしょう。、 

インドの子供に比べればマシだとしても、女三界に家無し、と言われた現実があり行き場所は無く、男でも丁稚奉公、商売に向いてなければ他の職を探すか、最悪はやくざにでもなるしか無かったと思います。 あんらぎ 2007年11月03日 09:31 ○ハラさん 
現代の日本は年金問題だのいろいろ取りざたされてはいますが、やはり昔の日本と比較すると格段の社会的な発展を遂げたと思いますね。 

今でもヤクザあたりは南米やタイ、フィリッピンなどの女性を観光ビザや結婚を偽装したビザで呼び寄せて搾取しているわけではありますが、2,26事件の青年将校の反乱もかつての東北地方あたりで行われていた女性の身売りなどの貧困を見かねて起こしたという説もあるので江戸時代にまで遡らなくとも似通った事情はあったのでしょうね。 

沖縄でも1972年の日本復帰以前は売春防止法もなく、貧しい家庭の女性たちが前借金にがんじがらめに縛られてコザの町あたりで働いていました。 

昔は家督相続は長男だけでしたので、次男三男あたりからは口減らしのために奉公に出るというのも一般にあったようですし、それにあぶれた男性は江戸時代なら無宿者、やくざ、渡世人などになるケースもきっとあったのだと思います。 

日本はもうそういう時代ではないですが、東南アジアの貧しい国々やインドあたりではまだまだそういう人身売買的な契約で売春宿や奉公に出される男性とかもいるのでしょうね。 

NHKドラマだった「おしん」が共感を持って、インドで人気があったというのもうなずけます。近代と封建時代のままの生活実態がクロスしながら並行してある社会なのだと思います。 

今時、日本で「女はさんかいに家なし」なんて言うと、「1階か2階に住んでいる女性のことなんでしょう」と言われるのがオチかも知れません。

  

ウダイプア-⑰

2007年11月01日19:08   3月16日(月) 
 11時、ホテルにシヴァが迎えに来る。部屋から見下せる湖の中ほどに作られたネール公園へ渡る。(往復一人2ルピー)。 

 昨日、シヴァが連れて行ってくれた彼の知り合いのアートスクールへ立ち寄り、900ルピーという細密画を200ルピーにまけて貰い購入する。四分の一以下になるというのが何やら怪しげである。 

 アートスクールといっても、牛小屋の裏にある暗い小さな部屋で2~3人の若い男が作業しているような所であった。 僕らが買ったのは15センチX20センチ程の紙に象にまたがったマハラジャが虎狩りをしている絵である。 

 その後、シヴァに案内されて動物園へ行く。虎や猿、蛇といったものだけで大した動物もなくうち寂れた感じであった。その動物園の隣はローズガーデンという公園で、王宮の庭園の一部だったそうだ。 

 ローズガーデンの中にある現在、図書館として使われている建物の正面にはガンジー像が立っていた。そこには三十年前はヴィクトリア女王の像が置かれていたそうだが、インド独立に貢献したガンジー像に取り替えられたのだそうである。そのヴィクトリア像は現在は建物内部の薄暗い廊下の片隅にひっそりと安置されていた。 

 シヴァにホテルへ送って貰い、100ルピーと読み終えた日本語の推理小説の文庫本のカバーに、日本語と英語で彼の推選文を書いて渡すと非常に喜んでくれた。撮った写真もボンベイから送る約束をする。オート三輪の運転だけではなく、観光ガイド、さらに整理券を取ってもらう役目、ディスカウントの交渉人としても活躍してくれたので彼の人柄なども推薦しておいた。 

 空港までは距離があり、さすがにオート三輪車では行けないのでシヴァの知り合いだというタクシーに来て貰い、6時にホテルを出て空港に向かう。その運転手によればシヴァのカーストは油屋だとのことだった。カーストとは階級のことなのか職制のことなのかやはり僕にはよくわからない。 

*カルカッタでの日雇い労働者の一日の平均賃金が当時20ルピーだということであった。100ルピー(300円)はその5日分の金額である。900ルピーの絵は日本円では2700円ということだが、当時インドの公務員の給料が2000~2500ルピーだということだったから、月収の半額近い値段だということになる。お金の感覚がマヒするというか、やはりよくわからない。