タイ・インド・ネパール旅日記(2)

タイ・インド・ネパール

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カジュラホ⑥

2007年10月18日21:02 

三月九日(水) 

 6時半起床。8時にはデリー国内線空港へ行く。少し離陸時間が遅れたけれども無事にカジュラホに到着する。 

 客待ちのタクシーに乗るが信じ難いほどのポンコツで、ドアーははずれそうになるし何しろエンジンをかけるのにバッテリー切れなのか客待ちしている何人かの仲間に数メートルも押してもらわなければならなかった。それが至って自然なチームプレイで毎回このようにスタートしているのかも知れなかった。 

 目的のチャンドラーホテルまでは2キロほどであったが、料金は60ルピーもとられた。ニューデリーの料金より5~6倍もぼられた感じである。部屋で少し休んだ後、歩いて10分ほどのところにあるバスターミナルへ行き、早速、明日のジャンシー行きのエクスプレスバスの切符を購入する。 

 そこから三輪自転車に乗って西群、東群、南群と分かれている遺跡寺院を案内して貰う。車夫はカシマシーといって覚えやすい名であった。彼が南群遺跡へ行く途中、村が一望に見渡せる場所に案内してあげるということで連れて行って貰ったら、単にブロックを積み上げた小さな2階建ての小屋で、そこの屋上が展望台で村が見渡せると言う。 

 平べったい小さな村落で白い土壁を塗ったような粗末な家がほとんどであった。幾つかのテレビのアンテナも見えた。そこの一階は工房になっていて、降りて行くと若い男が待っていて彼の描いたという巻き物のような絵を広げて見せてくれた。カシマシーの狙いもそこで買い物をさせてリベートを貰うということなのだろう。仕方なく、言い値の何分の一かの値段で布に描かれた絵を買う。 

 三輪自転車で村の中を通りぬける間中、子供たちが付いてきて口々に1ルピーだのペンだのとせがんでくる。自転車を漕ぐカシマシーさんは静かだったが、子供たちがかしましかった。ポケットに一杯詰め込んでいたキャンディーをあげたりしたがとても対応できない。しまいには大人の女性もその中に混じってくるようになった。 

 寺院の入り口付近でも物売りの攻勢が激しかったがそれほどしつこさは感じられなかった。片言の日本語で話しかける子供がそこにも居たのにはまたしてもびっくりした。どこで日本語を覚えたのかと英語で聞いたら、ユキコさんから習ったと答えていた。 

 それにしても、カジュラホの寺院群に共通するエロチックな彫刻や浮き彫りは以前から写真で知っていたがそれは素晴しいものだった。現代人よりもそれが作られた当時の人々の方が豊かな感性や想像力を持っていたに違いない。 

 その日は運の良いことに、僕らがやってきた時期がシバ神の祭にあたっていて明日がその最終日だそうである。夜の7時には寺院前にしつらえられた舞台でインド音楽と舞踊があるというのでホテルで休憩後に見に行った。隣に座っている人が舞台で踊っている女性はインドを代表するいかに有名な踊り手なのかとか、その踊りの解説を英語でしてくれた。 

 ヒンドゥの神々に関する古典舞踊だとのことだが、確かに気品の漂う神秘的な踊りであった。近郊の町はおろか、かなり遠い所からもたくさんの人達がこの祭のために集まっているそうである。8時45分に舞台は終了した。 

*1ルピーはおぼろげな記憶ながら、当時約3円ほどではなかったかと思う。ニューデリーでのタクシーは10ルピー(30円位)で近くなら乗れたと思う。町の普通の食堂のメニューにも10ルピーくらいから載っているのもあったので日本円より実感としては10倍位の価値があったように思う。つまり物価は日本の10分の1くらいだったのだろう。 

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○ハラ 2007年10月18日 22:29 あんらぎさん、 
まあ、どこの国でもそうですが、取れる所から取ろうとしますよね。 

最近は違うかも知れませんが、日本人は大体値切らない人が多いようですから、言い値で払って、後でもっと安い値段で買えたのに、と後悔する事があります。 

1ルピー3円なら日本の物価と比べれば馬鹿みたいな値段ですが、その国にいると、やはり五百円とか千円に感じる場合もあり、日本円に換算してばかりは居られません。 

馬鹿にされないためには、やはり気に入らない物は気に入らないとハッキリ言わないといけないんでしょうか。 
郷に入っても、郷に従いっぱなしでは、go down になってしまうかも。 

あんらぎ 2007年10月19日 11:44 ○ハラさん 
日本の経済が発展して、1ドル=360円から1ドル=80~100円くらいになった時期もありましたね。そういう為替相場というのはなかなかわかりづらいのですが、その国の通貨の強さが相対的に旅行者のお金の感覚を狂わせてしまうもののようです。 

1ルピーくれくれとうるさくつきまとう子供たち、当時3円くらいのお金でしたが子供たちには30円~100円くらいの使いでがインドではあったのかもしれません。もっとも1ルピーという安いお金を口に出して実際は10ルピーだとかとにかくお金を貰いたい口実に言っていたのかも知れませんが。 

インドあたりの貧しい国でなら何となく太っぱらになったつもりで少しは余計に払ってもいいかなという気にはなりますね。何しろ基本物価が10分の1くらいの感覚ですから使い勝手があります。とくにタクシーなんかは日本だと650円の初乗りがインドだと30円くらいから乗れたわけですから。 

1万円をルピーに両替でもしようなら札束になり、そのお金をホッチギスで留められたりします。もっとあとの日記でルピーと円の価値観に関して書いたのが出てくると思います。

  

ニューデリー⑤

2007年10月17日19:04 

三月八日(日)  

 自分たちで切符の予約を取ったりするのがややこしそうなので効率も考えて現地の旅行代理店を頼む事にした。 

 朝の10時に担当のものにホテルに来て貰い、打ち合わせをする。 
 担当者はアディヤカといって老けて見えるがまだ26才の若者で、英語も日本語も器用に操る誠実そうな男だ。 

 どちらかというモンゴル系に見えたのはネパール近郊の生まれと関係があるのだろう。こちらが考えていたスケジュールも相談しながら大体において決定した。 

 その後、午後2時半のホリデーインホテル出発のニューデリー半日ツアーの予約を入れ、それまで時間があったのでスタートする前にタクシーでオールドデリー、レッドフォート(赤い城砦)、国会議事堂、インド門などを見て回った。 

 半日ツアーはコノートプレースを起点に、ラクシェミー・ナーラヤン寺院、フマユーン廟、クワットル`イスラム`モスクと見てまわった。 

 いずれにも土産売りの子供達が待ち受けていたが、その中の一人に印象深い男の子がいた。 

 最初は英語で話しかけてきたのだが、無視しているとフランス語になり、さらにイタリア語、日本人と知ってか日本語に切り替えて話しかけてきたのには驚かされた。生活の知恵とはいえ、彼等の語学の才能には驚かされる。 

 夜8時、アディヤカ再訪する。今朝、話し合ったプラン、スケジュールで大丈夫とのことである。 

    『ルート』 

  ニューデリー~カジュラホ~アグラ~ジャイプアー~ウダイプアー~ボンベイ~ゴア~マドラス~カルカッタ~パートナ~ブッダガヤ~ベラナシー~ルンビニ~カトマンズ~ニューデリー~バンコック 

*同じ国内にも幾つもの言語の存在する国では割とマルチリンガルな人が多い。インドでも自分の出身地の言語に共通語、さらに英語を話せる人が多い。旅行代理店に勤めるアディヤカもネパール語に英語、日本語、さらにインドの共通語あたりを話せるらしい。日本語も丁寧な話し方で一年だけ日本大使館主宰の日本語教室で覚えたのだそうで、その語学センスには舌を巻いたものだった。

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クラウン ジョージ 2007年10月17日 21:17 世界中を旅しているあんらぎさん 
かっこいいですね。 

写真とかも一緒に載せてくれると楽しいですが。 あんらぎ 2007年10月17日 22:03 クラウン ジョージさん 
このタイ、インド、ネパールを旅行したのは13,4年くらい昔のことです。まだPCもデジカメも持ってない時で普通のカメラでたくさんの写真を撮ったのですが、現物は東京の兄の押入れのダンボール箱に詰まったままです。 

「百聞は一見に如かず」、あるいは「百文は一見に如かず」といいますからいずれスキャナーでPCに取り込んでフォトにまとめて写真は載せたいと思います。 ○ハラ 2007年10月18日 21:03 あんらぎさん、 
インド人がイギリスの支配下にあってその文化を維持し続けたのは、一つはイギリスの緩い政治、一つはインド人の適応力の早さなんでしょうか。 

インドと言えばカレーしか頭に思い浮かびませんが、カレーの他にも誇れる物があったんですね。 

お札に十種類くらいの文字で同じ何ルピーと言う金額が書いてありましたが、それぞれの文字は同じように見えませんでした。 
それでも適応するこの能力。 
ただ単に十億の人が居る国と思っていましたが、民衆の根強さには、やっぱりお釈迦様でも気がつかなかったんですかね。 あんらぎ 2007年10月18日 21:30 ○ハラさん 
日本にも各地方にそれぞれ方言がありますが、統一語のヒンディー語を話すのは国民の半数以下でインドにはなんと800種類以上の言語があるそうです。 

こうなったのも紀元前1500年ごろから様々な人種が日本の国土面積の9倍にあたる土地に侵略して、その人種ごとに言葉が使われたせいらしいです。 

英語が公用語になっているのはそういう意味ではかえって便利なのかも知れないですね。 

植民地経営も結果的には支配国の負担になるというのが時代に連れてわかってきたせいもあるのでしょうが、やはり人間のそこに歴史として長年存続する伝統や文化などというのは支配関係で変化させることは無理なのでしょうね。

  

2007年10月16日22:55 三月六日(日)~七日(月) 
きょうはタイからインドへ出発する日である。午前中はホテルでのんびり過ごし、午後からプラトゥーナムマーッケトへ行く。3時半には戻ってきた。市場は僕が子供の頃の那覇の市場のように渾然としていて、懐かしさを覚えた。 

早めにチェックアウトして4時半には空港へ行く。ニューデリー行きの飛行機は夜の8時半の予定だったが、遅れに遅れて10時になってやっと離陸した。 

ニューデリー時間深夜3時にガンジー空港に着陸する。タイ国とは1時間半の時差がある。空港出口には深夜だというのに大勢の男たちが客引きやら、荷物運びにありつこうとごったがえしていた。前もって予約していたホテル(Jaj palace inter continental hotel)の迎えの男が僕らの名前を書いた紙を持って待っていた。その男の案内で未整地の原っぱのような駐車場まで歩いて行く。区画ラインもなく適当に駐車しているようで、僕らの迎えの車は前後を他の車に挟まれて止まっていた。 

アメリカ人のコメディアン、ダニー・デビートにそっくりの背の低い太った男はちょっと舌打ちをしたかと思うと、何でもないように邪魔な車を手で押し退けて車を出した。 
  "You are strong man! "と言うと、"No problem, this is India."と答えた。心憎い出迎えである。 

ホテルで睡眠を少し取り、朝タクシーで汽車の予約センターへ行く。そこは地元の人達でごった返していてとてもじゃないが窓口でこれからの旅行スケジュールを組みながら切符が買える状態ではなかった。 

幸いタクシーをメーター料金プラス1時間につき10ルピーの割り増しで貸切にしておいたので同じ車で官庁街のコノートプレースへ行く。セントラルパーク内にある野外ステージではオリッサ州の剣舞が披露されていた。中国の剣劇のようにかなり激しい動きの舞いであった。 

政府観光案内所で地図や情報を手に入れ、近くの店や露天のマーッケトをのぞいてまわる。ウインピーというハンバーガーのファースト店でベジタリアンバーガーを食べ、その後オート三輪車でオールドデリー(旧市街)へ行きチャンデチョークバザーというどこから湧いて出たかと思うほどの人の波でごった返したマーケットへ行く。 

荷車を曳いている男を交通整理の警官が拳で殴っている。手や足の欠けた乞食があちらこちらで見かけられる。何の目的があってこんなに人出があるのかわからないが、不思議なことに通りを歩いているのはほとんど男性ばかりである。 

通りの途中にシーク教会があり、入り口に立っていた若い男に中に招き入れられる。黄色いスカーフを頭に巻いて内部を案内される。帰り際にお布施を要求されたので20ルピーを箱に入れて外へでた。 

帰りもオート三輪車を拾い、デリー駅前でタクシーに乗り換えてホテルに戻る。途中、オート三輪車とタクシーの接触事故を目撃した。道の中央を牛が寝そべっていたり、そのうえ信号もあるのかないのかはっきりしないのだ。事故の起きないのがかえって不思議なくらいであった。

  

2007年10月15日01:36 三月五日(土)晴れ 

ホテル主催のツアーでアユタヤ遺跡へ行く。行きはバスで朝の8時にホテルを出発、遺跡見学後12時に帰りは客船で川を下りホテルへと戻るコースであった。ガイドは自称チャーリーという25~28才位の若いタイ人でとてもわかりやすいはっきりした英語を話す、好感のもてる男だった。 

アユタヤ遺跡はどうも寺院か何かの宗教的な建物群の跡の様に思えた。レンガのような石で積み上げられた塔の跡が数多くみうけられ、現在でも現役の僧が管理に当たっているようだ。ある小屋の前を通りかかると、老年の僧侶に呼び止められ中に招き入れられた。中には小さな祭壇がしつらえられていて中央には賽銭箱がおかれていた。祭壇の周りには何人かの高僧とおぼしき人の写真がかけられていて、タイ語でなにやら説明をするのだけれどもよくわからなかった。ただ、なにがしかのお布施を要求していることは間違いないようだったので幾許かの小銭を箱に入れて外に出た。振り返ると、白人の中年女性が二人ちょうど今僕らが出てきた小屋の中に招き入れられるところであった。 

そこから船着場への途中にある王宮の公園に連れて行かれた。大きな池を囲むように世界各地の伝統的な建物が点在していて、そこには日本の茶室もあった。池の傍に菩提樹が一本立っていた。仏陀が菩提樹の木の下で悟りを開いたときの木の苗がスリランカに移植され、さらにそこからまたこちらにその苗木を分けたものなのだと説明書きにあった。中年の白人女性がすでにスリランカでその菩提樹を見たとか言っていた。僕らはこれからその本家本元の木をインドで見る予定である。 

公園から徒歩で10分程歩き、船着き場へ行く。そこには大きな観光用の装飾を施された船が待っていた。バイキングスタイルの豪華な食事をしながら優雅にホテルまで川を下っていく。幾つもの曳航船と擦れ違い、川辺の白い鳥が木の枝に止まっているのを眺めながらメーナム(母なる川)という肥沃な川を下っていくこのツアーには大いに満足した。 

夜はシャロム通り、パッコムマーッケトへ行く。偽ブランドやいかがわしい店の立ち並ぶ所で、観光客、現地の若者、商売人といった人でごった返している賑やかな所である。川沿いに建つオリエンタルホテルでピザを食べ、帰りは川沿いの各ホテルを結ぶ無料のシャトルボートでリバーシティ(シェラトンホテルの隣の船着き場)まで乗せて貰う。 

大分くたびれたが、景色のすばらしさも、観光スケジュールも何もかもがうまくいった満足感がある。ビールの一杯でもあればもうなにも言うことはないのだが、残念ながら明日は選挙があるのでアルコールの販売は禁止だとのことである。選挙とアルコールの因果関係はわかったようでよく分からない。 

*パッポン通りは不夜城の観光客で賑わう通りで、道の両脇にはバッグや財布、衣料品、偽ブランドの時計などを売る屋台が並ぶ。その両脇の店は主にディスコや女性をエスコートするような怪しげな店が立ち並んでいる。 

*選挙の前日は酒屋もバーでも酒類の飲酒や提供は禁止されている。今だによくわからないが、開発途上国には共通した規則のようである。思うに、酒食を提供して選挙民を接待して投票を依頼したり、酒を飲んだ人たちが政治に関して議論、興奮、暴動などに発展することを懸念してのことではないだろうか。

  

2007年10月13日12:07 3月4日(金) 

旅行代理店でニューデリー行きの格安チケットを買う。バンコックーニューデリー往復35000円は東京の半額ほどである。 

その後、ホテルの裏手にある船着場からロイヤル・パレスエキスプレスというボートに乗る。チケット売り場のおばさんは一人80バーツの小さな貸切ボートの切符を売りつけようとする。乗り合いボートの13~15倍の値段である。ホテルの従業員から船着場の場所を聞いた時に、乗る船を間違えないように言われていたので安いほうでいいからと断わる。 

乗り合い船は100人以上は乗り込めそうなもので、係員が切符に鋏を入れにくる。5~6つほど先の王宮のある船着場でおりる。 
  
リクライニング仏陀寺(正式名称を失念)の近くを歩いていると、やせた小さな男がやってきて、今日は仏教者デーなのでお寺は閉まっていると話しかけてきた。だから自分のトゥクトゥク(オート三輪車)で観光案内をするからそれに乗らないかという誘いである。 

丁重に断わり、せめて建物の外観だけでも見てみようと歩いていくと何のことはない。門は開いているしおまけに入場券までちゃんと売っている。あざとい商売が流行っているようだ。 

10バーツ払って中にはいる。リクライニング仏陀というのはお釈迦様が入滅していく姿を象徴している寝姿の仏像である。50メートルは優にあると思われる横たわった像で、金色に燦然と輝いている。 
若い男性の売り子が二人、線香やメダルの入ったケースの内側で夢中になってコンピュータゲームをしていたのがその取り合わせがおかしかった。 
  
境内はかなり広くてそのあちらこちらに様々な仏像が安置されている。ある建物の中では、若い坊さんが大きな仏像を背に一段高くなった所で座禅を組んでいた。そこへ僕らが入っていくとにこやかに英語で話しかけてきた。わずかだったがお布施を箱の中に入れると、家内は左手首に、僕には右手首に黄や緑の紐で編まれた色鮮やかな組紐を巻いてくれた。サッカー選手がよく手首に巻いているお守りの、ミンサガという物によく似ている。これから始まる一ヵ月もの長い旅の無事を祈り、日本に帰るまでそのまま手首に巻きつけておこうと思う。その寺は整体術と言うのか、タイマッサージの発祥地らしくその起源やら予約の受け付けやらの案内もはりだされていた。 


リクライニング仏陀を後にして、ロイヤルパレスの前に広がるマーッケトの屋台群の中を通り抜け、途中でトゥクトゥクを拾い宮殿の入り口付近で降りる。エメラルド(実際はヒスイらしい)で作られた仏像が本尊のエメラルド寺と宮殿が隣り合わせになっている。肝心の仏像は少し離れた所に安置されていたので正確な大きさは分からないが、緑がかった光沢のある石で作られていて、本物であれば相当の価値のものにちがいない。タイ人の祈り方を観察したり瞑想ぽい真似事をしたりしてしばらく床に座り込んでいた。宮殿の居住区は遠くから眺めるしかなく、公開されている付属の寺のような建物を幾つか見てまわった。 
  
その後宮殿を出てて、タクシーで黄金仏を見に行く。それからチャイナタウン、泥棒市場をまわりホテルへと戻る。最初に乗ったタクシーの運転手はやたら陽気な中国系の男で、夜の観光案内をするから連絡をくれと行って自宅の電話番号が載っている名刺をくれた。黄金仏というのはもちろん黄金で作られた仏像なのだが戦乱か何かで長い間、行方がわからなかったものだそうである。もっとも、見つかったときには表面は石膏で塗り固められていて火事かなにかのアクシデントで外側が割れて黄金製なのだとわかったのだそうである。 

その後、泥棒市場と言う名に魅かれ、チャイナタウンの入り口で地図をチェックしていると、自称ドクターと言う男に話しかけられる。家内に話しかけてきたのだが、自分は医者で、病院はあれだと少し離れたところにあるそれらしき建物を指差し、今、妻が銀行に用事で入ったのを待っている所だ、とか果ては僕らが東京から来たことを知ると来週会議で東京へ行く予定だ、あなた方を家族の様に感じるだのと言い出す始末であった。結局、自分の名前を告げれば安くなるというタイ`シルクの店の紹介が始まった。紹介した店で買い物をすれば幾らかのリベートがその男に入るという仕組なのだろう。泥棒市場というのは、東京でいう合羽橋のような問屋街で、主に建設用具を扱っているような場所であった。昔はきっと盗品なども扱っていたのでついた名前なのかも知れない。 

ホテルの帰りに拾ったタクシーは、僕らが乗り込んだ後でホテルまで250バーツだという。メーターを使うように言うと、故障で使えないという。それでは話にならないので外へ降りる素振りを見せるとオッケイ、オッケイと言いながらメーターを倒して見せた。タクシーにも観光者料金という二重の裏制度が幅を利かせているようである。 

夜はホテルでスープだけをとる。あまり食欲はなく、やたら汗をかくせいでコーラだのといったものばかり昼間から飲んでいるようだ。 

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*トゥクトゥクというのはオートバイに後部が人力車のように客が二人乗れるようになった乗物である。小型でタクシーよりも安いので庶民の一般的な乗物で町を流したり、ホテルの前あたりに何台も客待ちをしている。市内を流れる川には乗合の船が運航している。