山姥(やまんば)伝説というのがありますね。
里深い山の中で道に迷った旅人に一夜の宿を貸す。夜中にシュッシュと刃物を研ぐような音に目覚めた旅人が寝間の襖をこっそりあけて覗くと、そこには髪を振り乱した老婆が包丁を研いでいた・・というのが大体のパターンです。
さて、この物語は沖縄出身の青年、勢理客(じっちゃく)くんが東北の山歩きをしているときに体験したことです。沖縄にはない秋の紅葉を求めて東北の山歩きを計画した彼は、軽い気持ちで山の中に入ったもののいつしか道に迷い日が暮れてしまいました。
日も落ち、秋の山の中はつるべ落としの陽が暮れ、南国出身の彼には耐えがたいような冷たさで心細くてなりません。そんなとき、遠くの方から灯りのもれている人家が目につき、いくらか心が軽くなり急いでその灯りを目指して走り出していました。
「ごめんなんしょ、道に迷った旅の者でがんす」 (いけない、設定がすでに崩れてしまった)
「こんな時間にどなたかのう?」
戸をあけて出てきたのは背の小さなやせた老婆でした。
「すまなんだが。道に迷うて今晩ひと晩だけでも泊めてやってはもらえまいかのう?」
「まぁ、この老婆だけの一人住まい、何のおもてなしもできゃせんが、泊まっていったらよかろう」
こうして勢理客くんはあたたかい家の中でひと晩を過ごすことになったのでした。
山道を歩き続けた彼は疲れからすぐに寝入ってしまいました。どのくらいの時間が経ったのでしょうか、隣の部屋から聞こえる何か金属をこするシュッシュという音で彼は目を覚ましたのでした。
様子がおかしいので、そっと襖をあけて隣の部屋を覗くと、何と先ほどの老婆が髪を振り乱して包丁を研いでいたのです。 「あいひゃぁ!」 思わず、勢理客くんは沖縄方言で叫んでしまいました。
「見たな!」 前もって包丁くらい研いでいれば気づかれることもなかったのに、老婆は耳元まで裂けた口を大きく開けて彼に迫ってきたのでした。
寒いので服をつけたまま寝込んでいた彼はその老婆の形相に驚き、おおあわてで土間に下りるや靴を履くと表に駆け出したのでした。
彼は昔、那覇マラソンで一着になったほどの健脚でした。 「マラソン一着の方から、順番に並んでお名前をおっしゃってください」 テープを胸で切りゴールインした彼は係りの方にいいました。 「(ぜいぜい)はい、勢理客(じっちゃく)です。」
「いや、一着の方からお名前をお伺いしているのです」
「ですから、一着になりました勢理客(じっちゃく)です」
そう、彼は翌日の沖縄のローカル紙にも勢理客(じっちゃく)くん一着という大見出しで出たほどの健脚なのでした。
その彼が必死に走って逃げているというのにそれをよぼよぼの老婆がいとも簡単に追いつくのです。
追いつかれた彼は得意の沖縄空手で老婆をぼこぼこに足蹴にしてはまた走って逃げていきます。しばらくそうやって捕まりそうになると空手で防御して、また追いつかれるということを何度も繰り返しました。
崖の上に差し掛かったときに、彼の横蹴りが見事老婆の顔に決まりました。その勢いで老婆は谷底に転がって行ったのです。
ああ、良かった。これで逃げられると思った勢理客くんの脳裏にふと「肝苦さん(チムグリサン)可哀想」という沖縄の言葉が浮かんだのでした。その上、日頃、沖縄のおばあの特許とも言うべき「命(ヌチ)どぅ宝」という言葉まで胸に浮かんできたのでした。
もともとが心やさしい沖縄青年の勢理客くんはその言葉で、もしかしてあの老婆は単に気の狂ったおばあだったかも知れない。それを足蹴にして谷底へ突き落としたのでは・・と思ったのです。
勢理客くんはそう思うと、老婆の落ちていった谷底へ木の根っこやつたを伝い下りて行きました。はたして、老婆は谷底で落ち葉のように薄くやせた体を横たえていたのです。
「おばあ、大丈夫ねぇ?」彼が声をかけて、顔をのぞこうとしたその瞬間でした。 「見たなぁ!」という声とともに老婆が起き上がるや口を耳元まで裂けた恐ろしい顔で再び迫ってくるのでした。
勢理客くんもまたしても防戦に夢中になったのでした。頑強な若者の必死の抵抗です。しかしそれでも老婆は殴られた顔を真っ赤に腫らして彼の後を追いかけてくるのでした。
「やまんばぁ? やまんばぁ?」
沖縄方言で「やまんばぁ」というのは「痛くないのかい?」という意味です。
山姥、やまんばぁ、そのどちらとも取れるわめき声を出しながら いつしか勢理客くんはまたしても山道を走りだしていましたとさ。
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