タイ・インド・ネパール旅日記(8)Yahooブログより転記

タイ・インド・ネパール

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カルカッタ⑦

2007年12月01日08:54  3月27日(日)の続き 

 ホーリ祭りで赤く染まった興奮冷めやらぬ家内を落ちつかせて、大通りで拾ったタクシーでホテルへ戻ってきた。赤い染料まみれになった僕らの顔や体にホテルフロントの人もロビーに居合わせた客たちも驚いた顔をしている。 

 フロントの人の話によれば、その祭りには酒や麻薬を飲んで騒ぐ者もいるとのことである。それで誰彼構わずに赤い水や塗料を掛け合うのだから、祭りが異常に興奮するのも無理はないとのことだった。ホテルとしてはトラブルに逢わないように旅行者にはその祭りには近づかないように勧めているのだそうである・・といってもその最前線の真っ只中にいた僕らにその警告はすでに後の祭りであった。 

 シャワーを浴びても、鼻やおでこといった部分の染料は完全には取れず、家内の怒りの矛先はだんだんこちらに向けられてきてやばくなってきた。集中的に家内が狙われたのは祭りの中で踊ったり、写真を撮るのに夢中で僕が注意を払ってなかったせいだと言い出したのである。 

 まあ確かにそう言われれば返す言葉もない。だが多少の懸念はあったにせよ、水をかけられたり、染料を塗られる事くらいは始めから覚悟して行ったのである。不測の出来事とはいえ、僕も直ぐに助けに行ったのだからこちらばかりが責められるものでもない。段々僕の方も癪にさわりビールにポートワインの残り、さらには瓶に3分の1程残ったウィスキーをたて続けにあけてしまった。 

 気分の晴れぬまま3月13日以来の 禁煙を破り、マールボローを買ってホテルの外へ出て行った。 
あたりはすでに暗く、別に行くあてもないので5~6分程歩いて、道路の角にあったベンチにしばらく寝転んで、今日あった出来事などを反芻していた。 

 チョンギー通りからネルー通りに抜ける途中で倒れていた女の人の顔がまぶたに焼き付いてどうにも離れないのだ。祭りの喧騒の輪の中から家内を連れ出してホテルに帰ろうと大通りに向かって歩いている途中の道路脇にボロ切れを身にまとった生気のない痩せこけた女性が横たわっていたのだ。  

 薄目を開けたその女性の周りを何匹かの蝿がとびまわっていた。だがそれにも拘わらず、追い払う様子も呼吸をしているような気配もなかった。 

 もっともバイクに乗った若者達が、僕らに染料を塗りつけようと近づいてくるのを制止しながら、追われるようにその横たわっている女性の脇を通り過ぎたにすぎない。 ボロ雑巾のように道に横たわった女性に酔った勢いの感傷をもてあまして、20ヵ所ほど蚊にさされた後部屋に戻る。

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○ハラ 2007年12月01日 10:02 あんらぎさん、 
まあ、物は考えようで、これがただの祭り見物で終わってしまっていたら、ジュリアス・シーザーでは無いですが、来た、見た、撮った、位で終わったでしょうが、こういうハプニングがあったから、後々のための話の種になったわけですね、しかも色つきの。 

女の人が倒れていても、インド人が無関心と言う事は、よくある事なんでしょうかね。 
その内、衛生局の人間か誰かが片付けるんでしょうが、同じオギャアと生まれても、国が違えば、カゼを引くかも知れないから医者に行くと大騒ぎする人が居る国もあれば、人が倒れていても俺の仕事じゃないから、と放って置く人が居る国もある。 

人の命は地球より重い、と言ったのは福田前首相ですが、地球の重さも国が違うと随分違いますね。 あんらぎ 2007年12月01日 22:36 ○ハラさん 
インドといえども寒くはなかったのですが、朝晩と昼間の気温差はかなりあるように感じました。外で寝る人たちもいるのでしょうが、その中には行き倒れになった人も少なからずいるのではないでしょうか。 

猫が下痢したのと騒いでいるようなところからみたら、やはりインドの貧しさはなかなか想像できないものですね。通りいっぺんに旅行してきただけの通りすがりで眺めたインドですがそう感じました。 

人間の命は地球より重いといいますが、でも虫けらのように道端でその命を落としたりわざわざ戦争を起こして無駄に命を落としたりするのがいまだこの地球では起こっているんですね。日常生活からはなかなか感じ取れないものですが、一方でそういう現実が日常化している世界もあるということなんでしょうね。 

13,4年前のことですからこのところのインド経済の発展でその面はかなり改善しているのではないかと思います。

  

2007年11月29日20:57   3月27日(日) 
 今日はホーリーデーというヒンドゥの祭りの日で店も学校も休みだそうである。ホテルのフロントによれば誰かれ構わずに通りを歩いていると染料を付けられるから今日は表に出ないほうがいいという注意を受けた。 

 しかしせっかくの祭りを見逃す手はない。Tシャツで汚れても構わない格好で11時過ぎにホテルを出る。バックミラーもサイドミラーもないタクシーに乗ってパーク通りという繁華街に行く。車中から見かける人やバイクにまたがった若者達の、顔や手が赤く染まっている。 

 パーク通りも店は閉まっている上に、人出も見当たらない。人力車に乗り換えてチョンロギー通りに行くことにする。途中の道のここかしこに人が寝転がっている。車夫によると酒の飲みすぎだと笑って答えたのであるが、普段から道端で寝ているのか、行き倒れで路上に横たわっているのか旅行者の僕らには区別がつかない。 

 チョンロギー通りに近づくに連れて、賑やかな音楽が太鼓の音や鉦の音と共に聞こえてきた。太鼓の音を頼りに路地裏に入っていくと、若い男達が30~40人、上半身裸で踊りながら練り歩いている。人力車をそこで降りて、彼等の後についていくことにする。 

 踊りの集団について歩いていると突然赤い液体の入った風船が何個か足元で破裂してズボンの裾にかかった。見上げるとアパートの窓から2~3人の少女がそれらを僕らに向けて投げつけているのだった。 

 突然、後ろから無言で赤い塗料を家内共々顔に塗り付けられる。衝撃でメガネがはじき飛ぶ所だった。周りの人たちも顔といわず、体まで赤く染まっている。カセットテープの音楽に合わせて鉦や太鼓を打ち鳴らし、踊りながらお互いに塗料をつけあっているのだ。 

 特に、好奇の対象になりやすい旅行者は面白半分に狙われやすい。何人かの白人の男女もいるのだが、例外なく真っ赤に染まっている。僕も踊りの中心に引きいれられたので、彼等の動きに合わせてしゃかりきになって踊った。動きは沖縄のカチャーシー踊りなのだが大体の世界の踊りはこれでカバーできるのである。 

 そのエキサイティングな踊りの中で写真を撮ったりしながら10分程居たろうか、突然家内の叫び声が聞こえてきた。声のする方を見ると4~5人の若い男達に囲まれて家内は体中に赤い塗料を塗り付けられている最中なのだった。 
  
 その中から家内を引きずり出すのはほんの数秒の間であったが、家内によると顔だけでなく、胸にまで手で塗料を塗り付けられ、拒絶すると"Go back your own country."と言われたのだそうでヒステリックに怒りを爆発させていたのであった。 

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○ハラ 2007年11月29日 23:11 あんらぎさん、 
スペインがどこかで、確かトマトかオレンジかをかけ合う祭りがありましたよね。 

ビートルズの映画『ヘルプ!』は、リンゴに赤いペンキを塗って、カイリ教の生け贄にしようという映画でした。 

色を塗るのはインド人の勝手ですが、「お国へ帰れ」は一言多いですね。 
「お前達こそ、食堂へ帰れ(Go back your own canteen)」と言ってやって下さい。 あんらぎ 2007年11月30日 02:34 ○ハラさん 
宮古島にはドロを顔につける祭りがあるらしいですね。その日は俺の顔に泥を塗る気か!なんて怒る訳にもいかないでしょうしね。 

もともとホーリー祭りは赤い染料を顔や体に塗るというのが何かの縁起なのでしょうから、それを知っていたら塗られるのも致し方ないですね。ペイントだけに多少のペインは受容せねばならないでしょう。 

それを拒否したら、参加資格はない訳で、確かに「お国へ帰れ」と言われてもホーリー祭だけにほーりー見たことかと言われかねませんね。 

しかし何事も限度というのがあって、すでに染料だらけになっているのにさらにつける、特に外国人の旅行者はもの珍しさから我も我もと付けたがるのだから家内の我慢の糸もプッツンと切れたのですね。 

スペインのトマト祭りも何トンというトマトを水着やTシャツ、あるいは水泳用のゴーグルなどを身につけて前もって準備して参加しているみたいですね。 

そのトマトはグチャグチャになって通りの下水道を通り、ある地点でろ過されて集められて日本に輸出されているようです。それがケチャップやトマトジュースになっていたりするんですね。 

というのは嘘ですから・・トマドったりしないでください。

  

カルカッタ⑤

2007年11月28日20:41 
 3月26日(土)の続き 

 11時、ニッコーパーク到着。ツアーは二時間近くもそこで昼休みを取るそうである。そこは単なる遊園地なので時間を潰すには惜しい。それでツアーを離れ、そこからタクシーでヴィクトリアメモリアムへ行く。タジマハールをモデルに作られた建物で、内部は資料館になっている。主に英国の統治時代の展示物で構成されていた。  

 資料を見ていると、植民地時代にインド人がいかに不当で過酷な扱いを受けていたかが良く分かる。当時は一人のイギリス人に対して約10人程の召使が居たそうである。例えば一晩中、主人が安眠できるように扇であおぐ役目のものや、朝冷たい水が使えるように器に入れた水を夜の間中撹拌し続ける役目のものだの、とうてい現在の常識では考えられないことが罷り通っていたようである。 

 一旦、ホテルに戻り休んだ後、目の前にある動物園に行く。ウダイプアーのそれとは違い、管理の行き届いたものでホワイトタイガーが たくさんいた。 

 5時過ぎ、動物園を出て、タクシーで市の南の方にあるダークリアという所へ行く。そこにはダクシナパン・マーケットという大きなショッピングモールがあり、近代的なビルにブティックやファーストフード店などが詰まっていた。残念ながら、メインの政府直営店は閉まっていたのでそこから歩いて15分程の所にあるオールドバザーへ行く。 

 野菜や肉、日用雑貨などの市場街で地元の人で賑わっていた。便利そうなのでコップの中に突っ込んでお湯を沸かす電熱棒を買う。コイルにコードが付いていて電源に差し込んで水を入れたカップに入れるとそのコイルが発する熱でお湯が沸くという単純なものである。これでホテルの部屋でも自分でお茶を沸かして飲める。 

 4時頃から雷が鳴出していたが、やはりスコール風の激しい雨になる。小さな食堂を見つけ、コーラを飲みながら30~40分も雨宿りする。メニューも3ルピーくらいからあり、隣のテーブルの人の食べているのを見ると美味そうであった。小降りになったところで、タクシーで市の北側にあるニューマーケットへ行く。 

 8時頃にその商店街に着いたが、ホーリーデーというヒンドゥの祭と重なりほとんどの店が早閉まいしていた。それでも西ベンガル特産だという皮製品店を見つけ、40ルピーにバーゲンした財布を10個ほど購入する。

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○ハラ 2007年11月28日 22:33 あんらぎさん、 
私が初めてルーマニアに行った時は電圧の220ボルトは、聞いて分かっていたのですが、プラグの形状までは考えませんでした。 

丸い5ミリくらいの直径の金属棒が2本出ているタイプで、日本式のプラグではもちろんコンセントに入らないので、プラグをぶち切って電線を直に穴に突っ込もうかと思ったのですが、それで放っておいて掃除のオバサンがショートでもさせてはいけないと思い、ルーマニアの工場に据え付けた機械にあった100ボルトで充電したりしていました。 
2回目からは、変換プラグを買ってこれを使いましたから問題はありませんでした。 

アメリカでは、プラグは日本とほぼ同じ形でしたが、片方が少し長いのでアメリカで日本製の物は使えました(ホントは120ボルトですからちょっとドキドキはしました)が、アメリカで買った電器製品は日本で使う時にはヤスリで削りました。 
アメリカのラジオ・シャックで買った電器時計は広島では問題無かった(60Hz)のですが、東京に持って行ったら(50Hz)、時刻表示がおかしくなりました。 
これは、周波数切り替えSWが無かったので結局捨てました。 

オーストラリアでは、ハの字型のプラグでこれは無理矢理日本製のプラグをねじ曲げて差し込み、後に工場で変換プラグを貰いました。 

電圧が違い、周波数が違い、海外では安易に日本製を持って行っても使えない場合がありますね。 
最近は電気屋で変換プラグやトランスを売ってますから便利になりましたが、知らないと苦労しました。 

電器物だけに、始めはちょっとショックを受けました。 あんらぎ 2007年11月28日 23:16 ○ハラさん 
2000年の2月にイタリアに住んだ時に、日本から持っていったプリンターを電圧の違いで壊しました。 

頭の中では家内のPCを使った後で、PCの変圧器をプリンターで使用してPCはバッテリ起動すれば大丈夫だと理解していたのですが、プリントするときはそれをすっかり忘れてそのままONにしたら1枚目を印刷したあとにプリンターの下からドライアイスのような白い煙で比重が空気より重いのか神秘的に下の方へと流れていきました。いやあきれかったです・・というより唖然と眺めていました。 

アメリカ旅行で買った目覚ましラジオも確かに時間が狂って東京では使えなかったですね。DVDプレーヤーも僕は25ドルのを使ってますが、日本では3000円以内で買えるということはないと思うのでお奨めなんですがDVDそのものが地域コードみたいのがあって日本では使えないとなると仕方ないですね。 

PCもこの1年内では新しいのを買いたいと思っているのですが、アメリカで安く本体を買って日本のソフトを入れて日本語のPCに出来るのかどうか知りたいものです。でもやはり日本で最初から組み込まれたのを買ったほうが安全かも知れないですね。 

アメリカの電気器具は日本に比べて電圧が強力なせいか、洗濯機や乾燥機、掃除機、冷蔵庫なども日本製よりはやぼったいですが実用本位で頑丈に出来ているような気がします。 

電圧の違いは電気器具だけに前もって危惧して対策を考えないと

  

カルカッタ④

2007年11月27日21:01  3月26日(土)の続き 

インド旅行の手始めにカルカッタを選んではいけないと大体の旅行ガイドには書かれている。日本からやってきて、初日のツアーでバクシーシ攻勢にあったり、悲惨な情景に遭遇したかして翌日からの一切のスケジュールをキャンセルしてホテルに閉じこもり、チケットを予約してそのまま帰国の途についた人もいたそうである。 

 僕らもそれらのことを念頭において比較的豊かなニューデリーから旅を開始した訳である。しかしインドにはどこに行ってもスラムはあるし、それなりにバクシーシ攻勢もあちこちで受けてきた。そしてその度に、カルカッタを考えればこれくらいのことはまだまだそれほどのこともあるまいといった心理操作をしながらバクシーシ攻勢に耐えてきたのだった。 

 そして、いま実際にカルカッタにやってきてバスを降りる度、あるいは乗り込む際にバクシーシ攻勢を受けて思うのは、所詮僕ら通りすがりの旅人には何も出来ないということだ。ゴアで会ったカルカッタ駐在の施しを一切しないと言っていたアメリカ人にその時は少なからず反発を覚えたものだが、やはりそれが最善の策なのだろう。 

 例えば一人に何かをあげるような素振りをする、それだけで周りにいる者が我も我もと押し寄せて来るのだ。そうなるとひたすらバスに駆けこむしかない。観光客をターゲットにした物乞い集団はかなり積極的なのである。 

 それもその筈で、貨幣の価値観に疎いツアー旅行者は地元の者にとってはびっくりするほどの現金を与えるチャンスが地元の人間よりあるのだから、いかに嫌がられようが積極的につけまわした方がいいに決まっている。それしか生活の糧を得る方法がないのなら僕だってそうする。 

 またそれとは対照的に、ひたすら寺院の入り口などに座り込んで、おとなしくそれこそバクシーシを待っている人達もいる。その人達にはお参りにやってきた地元のインド人がそれとなく小銭を与えている。バクシーシの精神はある意味でインド社会の不備な福祉をカバーしているのかも知れない。 

 その後、ジェイン寺院へ行く。香港にあるタイガーバームガーデンのような原色のペンキを塗りたくったような庭園があって、趣味の良いものではない。 カジュラホのような芸術を産みだしたインド人の感性が現代はせいぜいこのような感覚になったのだろうかと思うほどの安っぽいけばけばしさであった。

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○ハラ 2007年11月27日 21:30 あんらぎさん、 
まあ、どの国にも貧と富があり、「貧しさ」だけを見るのも偏ってますし、「富める」だけを見るのもその国の本当は分かりません。 

ルーマニアに行った時も、アメリカに行った時も、訪問した家庭は大体想像していた通りでしたが、マレーシアではインド人のボーイの家に行って、その家具などの「何も無さ」にビックリしました。 

お姉さんがカレーを作ってもてなしてくれたのは以前書いたとおりですが、テープルで食べたか、床で食べたかは忘れました。 

日本も戦後は貧しかったですが、今やそれなりに家具も持っていてまあまあ、このマレーシアの家ほどではありません。 
このインド人のボーイは一人でアパートを借りているので独身のアパート暮らし、男一人ですから、事情は違うと思いますが、貧しくても貧しいなりに家の中は綺麗にしていました。 

会った人の態度、生活でその国の印象が変わってしまいます。 あんらぎ 2007年11月28日 10:58 ○ハラさん 
貧しさというのは相対的なものだと思いますね。確かに日本の戦後も貧しかったですが、それが世間全般が一様に貧しかったので今振り返ると今みたいに物があふれかえっている訳ではありませんが、またそれなりにあまり貧しいと感じることなく生活していたように思います。 

我が家に初めてTVがやってきた日、冷蔵庫が来た日、洗濯機が来た日、電話が入った日、クーラーがついた日などと一つ一つの家電製品が日本の高度経済成長で一般に普及してきた頃に少年期を過ごしたものとしては、子供の頃を思い出してもあまり不便だったような記憶がありません。 

もっとも母親たちは大変だったでしょうね。冷蔵庫もないし、石油コンロ、電気炊飯器もあとになってからですしね。かなり大変だったと思います。 

僕はあまり物欲はない方なので、また少年時代のような何もない時代でもどうにか暮らしていけると口では言ってはみるものの実際は大変でしょうがないでしょうね。夏の暑さはもうクーラーなしには乗り越えられなくなっているでしょうし、冷蔵庫のない生活もTVのない生活もすぐに耐えられないでしょう。 

インドのような国では上流階級にはものすごい金持ちがいる反面、物乞いをして暮らす人たちも人口比から言えばかなり大きいという格差がはっきりした社会なのでしょうね。 

上流階層には飛行機の中とか、ホテルの経営者、あるいはそのホテルで結婚式パーティをしている人たちを見かけましたが、観光地に行くとなるとそこにはやはり観光客からの施しを待ち受けている人たちがどうしても目だつということなのだと思います。

  

カルカッタ③

2007年11月26日20:13   3月26日(土) 
 朝8時からの政府観光公社のバスツアーに参加する。最初にホウラー橋を渡り、旧市内を通り抜けてベルア・マス寺院へ連れて行かれた。道路はかなり混雑していて川を超えたあたりから駅方面にかけてはスラムといった街並が続いていた。 

 バスの中から見えるスラムの中では道端でドウティという腰巻ふうのものを身にまとい、虚ろに縁台に寝そべっている若者や、汚い下水の水で皿を洗っている男などを見かけた。 

 その後、さらに北の方にあるヴィヴェカンダ橋を渡り東インドでは最大のダクシネシュアールというヒンドゥ寺院へ行く。ハレクリシュナも修行した寺院らしい。彼に関する資料室などもあった。 

 その寺院の中庭で威厳のある哲学者といった風貌の頭の禿げ上がったおじいさんが、説教風の口調で何やらがなりたてていた。しかし足元を見ると、小さな缶が置かれていて、ジェスチャーから察するにどうやら自分の不運、境遇を訴えてお布施をお願いしている様子なのであった。 

 詳しくは分からないが、バクシーシといって持てるものが持たざるものに施しをするという行為は施しを受ける側を助けるというだけの単純なものでもないようだ。施しをする側も人に施しを行うといった徳を積むことにより、来世もしくは輪廻としての生まれ変わりによりよいカースト、境遇になれるといったヒンドゥの思想が底に流れているように思う。 

 だから、施しを受ける側からしても施しを受けるといった心理的な屈辱感とは無縁である。いや発想の逆転から言えば施しをする側の人々の徳を積む行為の手助けをしているといった気持ちが受けて側に生まれたとしても不思議ではない。彼等にあまり悲槍感を感じないのもそのせいではないだろうか。手足の無い身体障害者やライ患者らしき人でさえ妙な明るさを持っている人がたくさん見受けられるのはそのせいではないのだろうかとちょっと思った。 

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○ハラ 2007年11月26日 20:58 あんらぎさん、 
私が人から聞いた話では、大乗仏教は、念仏を唱えれば皆極楽に行けるのに対して、小乗仏教は、極楽に行けるのは修行を積んだ坊さんだけで、一般の人はその坊さんに寄進をしたりお布施をしたりして、その福を分けて貰おうとする、と言う事でした。 

身障者や病人に施しをするのはもちろん良い事ですが、施しを受ける人が物乞いをする以外に生活の方法が無いのなら、それは問題ですね。 
人それぞれに何か特技があり、社会や周りがそれを何とか生かすようにして欲しい、と思います。 

あんらぎ 2007年11月26日 21:15 ○ハラさん 
確かにそうですね。 
紀信やお布施、あるいは体の不自由な人、貧しい人に施しをすることにより、徳を積んで来世、あるいはまた生まれ変わるときによりよい身分になるからというのは悪い事ではないけれど、もっと政治的、社会的に根本的な面からの改良、改革が先ですよね。 

宗教も解釈によってはいろいろですから、オウムの麻原みたいにポアという宗教のオブラートで包み込んだら殺人も正当化できたりするわけですからね。 

ただ、施しを受ける身体障害者たちが妙に明るい表情をしているのにそういう心理的なものがあるのではないかと少し感じたのは事実ですね。