タイ・インド・ネパール旅日記(9)Yahooブログより転記

タイ・インド・ネパール

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ベルナ-シー①

2007年12月09日23:49   3月30日(水) 

 朝4時45分、モーニングコールで起床。5時半運転手のファルクが迎えにくる。ガンジスの沐浴をボートの上から眺める予定である。 

 早朝の少し冷気の漂うガンガー(沐浴上)界隈では通りの上で草の茎を噛み潰してブラシ状態にしたものを使って歯を磨いている者、その茎を売り歩いている者、道端に落ちている牛糞を手でこね回している女性達がいて、中には軒下でまだ寝ている人達もいるが、朝の活気は早くもみなぎっていた。 

 沐浴場の入口付近は身体障害者や、物乞い、物売りですでにごった返している。12才位の少年がすでに岸辺で僕らを待っていてボートを漕ぎ、ガート(沐浴場)を案内してくれる。ガートは階段が川に吸い込まれるようについていてその階段を下りて水に入れるようになっている。 

 ボー トの上から沐浴している人たちの様子や、ガンジス川の風景を眺めようという観光客たちで早朝にもかかわらずすでにかなりの数のボートが川には浮かんでいた。 

 ガンガー(沐浴場)の両端にはそれぞれ火葬を行う場所があり、薪を用いた火葬だと2000ルピー(6千円)以上の経費がかかるが、焼却炉でガソリンを使うとたったの100ルピー(3百円)で済むという説明を少年は何気なくしてくれた。 

 観光客らしき人の中にも水着でガンジスの水の中に漬かるものも居るが、水は手をつけるのもためらわれるほど茶色く濁っている。それに火葬した後の遺灰もそのままこのガンジス川に流すというし、時には遺体がそのまま上流から流れて来ることもあると聞いていたので、いかに聖なる川とはいえどもヒンズー教徒ではない僕ら部外者にとっては地元の人たちが体だけでなく、口の中までもその川の水ですすいでいるのは信じ難い光景だった。 

 突然ボートの下からスッーと人の体が浮いてきたときは一瞬ハッとしたが、それは泳いでいるインド青年が素もぐりで浮き上がってきただけであった。眼が合うと照れ笑いしていたが、紛らわしい事はしないでいただきたい。 

(僕らをボートで案内してくれた少年はその後日本に戻ってTVのドキュメンタリーに出ていたのを見かけた。彼の家族は長い事ガンガーで貸しボート屋を営んでいるのだそうだ。今や20代半ばの青年になっているはずで、やはり今でも家業に精を出しているのだろうか。他にも死期が近いことを悟った老人たちがガンガーを目指してやってきて宿泊する場所などが撮影されていた。) 

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○ハラ 2007年12月10日 00:38 あんらぎさん、 
私がインドネシアに行った時、工場がジャカルタの町の東の端っこにあったのですが、その関係で工場の近くのホテルに泊まっていました。 

そのホテルの前には大きな湖があり、中程では水上スキーをしており、湖畔では体に石けんを塗って体を洗っている人たちが居ました。 

また、近くの、家が固まっている所では、スコールの時に、トタン屋根の一カ所から落ちてくる雨水をシャワー代わりに体を洗っている人を見ました。 

この湖は茶色では無かったですが、よくやるやあ、と思って車で通りすぎていました。 

インドの茶色い水の聖なるガンジスで体を洗ったり、歯を磨いたり、と言うのは日本のテレビでは見た事がありますが、現地、ハイデラバッドではさすがに見ませんでした。 
ハイデラバッドにガンジス川は流れていないからなんでしょうが、それにしても茶色い水で体を洗えるというのは宗教のせいなんですかねえ。 

体を洗っている傍を死体が流れて行く、などと言うのは想像が出来ません。 
日本の各都市も空襲後はそうだったんでしょうし、沖縄や広島、長崎も被爆した人が火傷して川に飛び込み、そのまま溺れ死んで流れて行くと言うのがあった事は想像できますが、戦争が無くなった今、普通の川を死体が流れて居て、その傍で体を洗うというのは何とも図太い神経でないと出来ませんね。 

もっとも、私の母親は原爆投下後、2日して広島市内に入って妹を捜したそうですが、その時会った被爆者や川に浮かんでいる馬や人間の死体を見ても特別ビックリしなかったそうです。 
慣れって恐ろしいですね、それとも、インドでの考え方は、人はいつか死ぬのだから、当然の光景なんですかね。 あんらぎ 2007年12月11日 03:10 ○ハラさん 
死体をどう見るかはこれもその人の思想、文化が大きく反映しているでしょうね。 
平和で文化的、生活水準もある一定以上の国、社会では遺体は大体大切に扱われるものかと思われます。 

それが、チベットのように鳥葬が行われる文化では、僕らの視点から見ると残酷な儀式に思えますが彼らにはそれが神聖なことなのでしょう。 

インドのヒンズー教徒はやはり死後はガンジス川に違背を流してもらう事があの世に行けることだという思想があるので、死期が迫った老人は家財、遺産をすべて小屋孫に処分して放浪しながらガンジスにたどりつき、そういう施設で死ぬのを待つ人もいるそうです。 

スペインの新聞には密入獄に失敗した浜辺に打ち上げられたモロッコ人の写真や、頭から血を流して車の運転席にいるけが人の写真などが載ってました。日本ではそのような写真は避けるのが当たり前であり、死者の姿は忌み嫌われています。人間の体を魂の抜けた単なる入れ物だと見るか、その国や人種の思想感も大きく影響しているような気がします。 

僕は怖がりなので、とてもじゃないですが死体を直視、直面することはできません。非日常の世界、たとえば原爆投下後の広島市内を妹探しでさ迷った○ハラさんのお母さんにしても神経が図太いわけではなく、その当時の状況がそれに耐えられる神経を一時的に形作っていたのだと思います。

  

2007年12月07日21:13 3月29日の続き 

 例に違わず、ブッダガヤも境内入口周辺はたくさんの物乞いが集団でいた。道路わきに座り込んでお互いに、体に付いた蚤、虱を取り合っている女性たちもいて、時は違え仏陀が実際に存在していた場所だけに、その光景がより一層なまなましく感じられる。仏陀はそういう光景に触発されて世俗を捨て修行に入る決意をしたのかも知れない。 

 餓死寸前になりながら、修行を中断して山を降りてきた仏陀に、乳粥を与えて介抱した、スジャータという娘が住んでいたといわれる村を眺める。乾季で水のない川の200~300メートル程離れた対岸にあって、イスラム教徒で英語の話せない運転手のファルークが地元の男の人の説明を受けたのち僕らに指し示すだけなのだからはなはだ頼りない。そういえばコーヒー用粉ミルクにスジャータという商品名のものがあるが、そこから来たのかとふと思った。 

4時、ブッダガヤを出発。ヴァラナーシー(ベナレス)まで6時間ほどかかるという。GTロードというパキスタンまで続いているという道を時速80キロでひたすら突っ走る。多分、国連が建設したアジア街道の一部ではないかと思う。 

 割と、大型トラックの交通量が多い。荷物の積みすぎのせいだろう、時折道端に横転しているトラックを何台も見かけた。ドライブインと呼ぶにはためらわれる、ドライバーが休憩を取ったり、食事のできる場所が街道沿いにあった。テーブルはもとより、木製の簡易ベッドも野戦病院のように並んでいて長距離運転手が食事をしたり、仮眠を取れるようになっている。 

 そういうところへ、僕らの乗った車は何度となく休憩というよりも車のエンジンを冷やす目的で立ちよった。40何年もモデルルチェンジのないアンバサダーというインド唯一の国産乗用車は常にオーバーヒート気味で何度もラジエーターに水を補給しなければならないのである。 

 その中の立ち寄った休憩所の一つに胸を打たれることがあった。花を抱えた10才と7才位の姉と弟が入ってきてドライバーたちの間を歩き回っているのだが、誰も買う人がないので立ち去ろうとしていた。 

 そのまま出て行かれるのも可哀想なので思わず、飲み物を買うためにカウンターの近くに立っていた家内に目で合図を送ると反射的にカウンターに置かれていたお菓子を僕に手渡したので、それをまず少年に与えた。 

 少年は思いがけない出来事に邪気のない満面の笑みを顔じゅうに浮かべて白い歯をこぼしながら受け取ってくれた。感動するほどの美しい笑顔である。しかし姉の方へ差し出したお菓子はとまどいをみせて受け取ろうとしない。あちらこちらでねだられたのは度々であったが、プレゼントを断わられたのは初めてであった。 

 結局、とまどいながら何度か申し出るのと、近くに座っていたドライバーが何かインド語で言ってくれたのでその少女に受け取って貰えたのだが、少女の毅然とした態度に恥ずかしさを覚え、黒いスカーフで頭を覆った顔が神々しく感じられた。 

 夜10時半、ベナレスのクラークホテルに着く。デリーの旅行代理店と提携している地元のエージェントが飛行機の遅延で狂ってしまったこれからの僕らのスケジュール調整の為に待っていてくれた。そのことは知らされてなかっただけに嬉しかった。もっとも英語を話せない運転手ファルークでは僕らにそのことを伝えようにも伝えられなかったのだろう。

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○ハラ 2007年12月08日 03:14 あんらぎさん、 
この少女にもやはりプライドがある、と言う事なのでしょうね。 

花を売っての代価は受け取るが、何もしてないのに物はもらえない。 
私達は物乞いとは違う、そう言う事ではないでしょうか。 

後進国で、よく子供が病気や怪我をした親や兄弟の代わりに働いて生活を支えている場面をテレビ報道していますが、可哀想とか気の毒にとか言う目で見てはいけない、と言う良い見本だと思います。 

先進国では、子供には児童福祉法があって、子供は働けませんが、百年前なら先進国でも子供が働くのはそんなに珍しい光景では無かったはずです。 

今の日本ではむしろ20歳までは子供扱いしているようですが、実際には13歳くらいからは大人の扱いをする必要もあると思います。 
凶悪事件を起こしても、子供だからと、軽い罪になる事もあるようですが、インドの10歳の女の子が、物を貰うのに、え? と言う顔をするのと合わせれば、13歳以上は十分大人の意識が芽生えているはず。 

子供扱いされた親が子供を扱う日本の子供と、このインドの少女とは根本的に違うのでしょうね。 あんらぎ 2007年12月08日 12:45 ○ハラさん 
僕らがこれまで見てきたのは主に観光地でそこでは観光客を目当てにした物乞いが集まっていました。そりゃ、稼げる場所に集まるのは人の常ですからそういう場所で多くの物乞いにバクシーシをお願いされてきただけに、観光地からは離れたドライブインでその少女の毅然とした態度に胸を打たれたのは事実です。 

日もどっぷりと暮れて、小屋とテント、屋根なしの場所に簡易ベッドを並べたようなドライブインで、そこの石油ランプのような薄暗い灯がともる屋内から 
外に出たらもう真っ暗闇のような感じでした。そこへ姉妹が花が売れないで出て行くという、僕も気が利いていればその花を買ってやればよかったのになどと今、気づきましたね。 

日本ではせいぜい新聞配達をする小学生とか中学生くらいはいるでしょうが、インドのように生活のために奉公のように縫製工場で勤める子供たちが10歳くらいからいるなんてことは考えられませんね。それも大人顔負けの長時間労働をさせているところもあるようです。もっとも僕も時おり先進国の有名ブランドの請負工場の記事などで知るのみですが・・ 

6~7才の少年はまだ無邪気でお菓子を貰ったという単純な喜びに、こちらが恐縮するほどの気持ちのいい笑顔を与えてくれました。ちょっとした安いお菓子であれだけの笑みをなげかけられると、どうにもつらいですね。

  

2007年12月04日10:08  3月29日(火)の続き 
  
 ラジギールに11時頃到着。竹林精舎というのがあるところだった。入口近くには、日本の寺が建っている。中には竹林に囲まれた小さな池がありその端に祠に納められた仏像があった。 

 そこで地面に落ちている竹の葉や、瓦のかけらを記念に拾う。僕らの他には僕らのあとを付けまわすバクシーシをねだる10才位の少年だけだった。せっかくの静かな場所でも落ち着けず、その少年のしつこさに根負けして1ルピーを渡すと勝ち誇ったように離れていった。 

 ビンサーラ王が囚われたという牢獄跡をまわり、頂上には日本の寺があるという霊鷲山にリフトで登る。200~300メートルほどをスキー場にあるようなリフトで登っていくのだが、怖がりの家内は下で待つことになった。頂上からは悟りを開いたあとの仏陀が、始めて仏教講義を行なったといわれる岩山が見下ろせた。 

 2時過ぎにブッダガヤに到着。金色に輝いている仏像の納められた30メートル程の塔の裏に、仏陀が悟りを開いたという菩台樹の木が立っていた。 

 周りをコンクリートの柵で囲まれていて、仏陀が座禅を組んだという菩提樹の下の金剛石もその隙間から覗くしかなかった。周りに落ちていた菩台樹の枯れ葉を20枚ほど収集する。 

(金剛石の周りの鉄棒の嵌ったコンクリートの柵は日本に戻って随分後で知ったのだが、オウム真理教の麻原や幹部連中が仏陀の真似をしてそこで座禅を組んだり瞑想を行ったせいでその後、立ち入り出来ないように作られたとのことであった。地下鉄サリン事件の起こる1年前だった記憶がある。) 

*仏陀の本名は ゴータマ・シッダルータ (生母 マーヤ) 
シャカ族のスッドーダナ王の時代にネパール・バスティヤ地方にあるルンビニ園で生まれる。 

仏教ゆかりの地は 仏陀が苦行した地ー「前正覚山」、成道の地ー「ブッダガヤ」、初転法輪の地ー「サールナート」、説法の地「ダジギール」、入滅の地「クシナガラ」 

さらに祇園精舎「サヘトマト」、仏典結集の地「ヴィンシャリ」、仏教の学都「ナーランダ」、石が語る経典の世界「サーンチ」(ストゥーパ 仏舎利塔)、壮大なる石窟寺院「アジェンター、エロ-ラ」、仏像発祥の地「ガンダーラ」、仏教東伝達の道「バーミヤン石窟郡」などがある。

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○ハラ 2007年12月04日 17:10 あんらぎさん、 
広島駅の北側の山の上に仏舎利塔があります。 
仏陀の骨を収めてあるのだそうで、東南アジアのパゴダみたいな格好をしていて、子供の頃から山登りの目標にしていました。 

広島では盂蘭盆の時、墓の前に紙と竹で作った灯ろうを立てますが、これは浄土真宗である安芸門徒の特徴なのだそうです。 

私が働き出して日本の他の土地へ出張に行くようになって、8月15日に墓の前に灯ろうがないので、「ああここでは灯ろうを立てないんだ」と思っていましたが、後になって分かったのは、この灯ろうを立てるのは広島の西半分、安芸地方だけである事でした。 

「仏舎利塔」というのは、子供の頃から山の名前だと思って使っていて、仏舎利というのが仏陀の骨でそれが収めてある塔だから「仏舎利塔」なのだというのが分かったのは大きくなってからでした。 

インドに行きましたが、宗教に関心が無いのでインド人から神様の名前をいくつか教えて貰いましたが、きれいに忘れました。 

今、年を取ってきて、神より髪の方に見放され始めています。 あんらぎ 2007年12月04日 22:49 ○ハラさん 
僕は仏教徒ではありませんし、特に何かの宗教の信奉者ではありません。でも宗教や神様に関するルーツ的なものにはまったく無関心と言うわけでもないのでやはり仏教のルーツの地は興味深かったです。 

仏舎利塔というのはインドでは石を何段にも積み重ねたもので、日本や中国の五重塔のルーツかと思われますね。それに神社の鳥居もやはり同じスタイルのよく似たものがインドにあって、それがやはりルーツのような気がします。 

また、神道でお払いに紙のついた棒を目の前で振りますが、その起源もインドのジャイナ教が小さな虫などを殺さないように降りながら歩くときに持っていたものにあるそうですね。 

日本の古来からの言い伝えなども少し形を変えてインドや中国にすでにあったりとやはり仏教とともに伝えられた文化が換骨奪胎されて日本文化に影響を与えていると思います。 

沖縄はもちろんお寺はありますが、どちらかというとやはり沖縄古代の宗教の祖先崇拝の影響が大きいようです。それに中国の道教の影響とかもありそうです。 

インド自体は仏教の発祥の地ですが、主にヒンズー教にイスラム教が勢力を占めているようです。 

ヒンズーの神様もたくさんいるので僕も忘れましたが、ガナ-シャだったか、顔が象の神様に、腕をたくさん持った女神などがありますね。 

僕の髪はまだ神は見捨てず、時おりガッドならぬカットしております。

  

2007年12月03日21:41 
  3月29日(火)  
 朝6時半起床。7時半パートナーを出て、2時間半程でナーランダに着く。周りは北西のラジャスタン地方のように、赤い乾燥した土ではなくて、緑に覆われた畑であった。それに道は舗装されていたので、時折小さな村を通りながら快適に走ってこられた。 

 ナーランダは2~3世紀頃の仏教大学の遺跡のあるところである。赤煉瓦で作られた塔や講堂、住居跡なが整然と並んでいて、古代としては壮大な規模に間違いない。それに煉瓦はそう古さを感じさせないので、少し手直しさえすれば今でも充分使えそうな気がする程、モダンな作りである。 

 例によって、入口付近には物売りや、バクシーシを求める人達がいる。しかしそこでは観光客に殺到して、人を煩わすことはなく地べたに一列に並んでおとなしく座っている。さすがナーランダである。 

 そこで別に何がどうだと言われたらそれまでだが、ちょっと気になることを目撃した。日本人ツアーの中年のおばさんが道端の物売りから土産物を買ってその支払いの際に、ビニール袋に無造作に入った大量のインド紙幣をバッグから取り出したのである。 

 「両替したばかりでよくわからないのよね」などと友人に言いながら支払っていたのだが、物売りの困惑した表情が目に焼き付いた。 

 彼女にとっては日本からツアーでやってきて、宿泊したホテルでとりあえず2~3万円程度をルピーに両替しただけに過ぎないのだろう。それが予想以上の大量のインド紙幣に財布にも入らず持ち合わせのビニール袋に突っこんでおいたのだろう。 

 それに2~3万円のお金を取り出すこと自体は日本の日常ではそう珍しいことでも何でもない。しかし、ここでも経済のマジック、トリックが働く。日本で1000円~2000円の買い物に100万円もの現金を取り出されたら、誰でも驚くのはあたりまえである。それこそ目を白黒させるに違いない。 

 日本円で2~3万円をインド紙幣に両替したら、単に量だけでなくその貨幣価値も変化してしまう。インド人の露天商にとってはそれが年収以上の価値のあるものかもしれない。この微妙な感覚のズレは僕自身も分かっているようでなかなか理解し難い一種の不条理さを感じてしまったのであった。

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○ハラ 2007年12月03日 22:47 あんらぎさん、 
私はこのオバサンと少し似ている所があると思います。 

私はサミットの参加国以外(つまり後進国)へ行った時は、飛行機の中にある、あの気分が悪くなった時にウェッと吐くあの袋の中に、現地の金を入れて、その中からお金を取り出します。 
タイでは、行きつけだったスナックのタイ人のオネエチャンが、見かねて財布を買ってくれました。 

普段から金持ちに見えない格好をしていますが、現地の人に気の毒に思われて、と言うのは結構あります。 

実際金持ちではありませんが、この袋の中にはその国での全財産である両替した現地通貨全部を入れていて、取り出した時、笑う人も居ます。 
金の切れ目が縁の切れ目、と言いますが、私には、あの袋の切れ目がその国との縁(円?)の始めです。 あんらぎ 2007年12月04日 04:28 ○ハラさん 
とてもいいアイディアですね。あの袋は頑丈だし、中身も外からは見えないしかつホテルの部屋のフロアあたりに無造作に投げ出しておいて泥棒が入ってもまさか現金が中に詰まっているとは思わないでしょう。(ただし、ハウスキーパーにゴミと間違えられて捨てられる恐れもあり) 

透明のビニール袋に入れて現地では大金に相当する現金をすべて白日のもとにさらけ出さないだけでもとてもいいことだと思います。 

ラオスで宝石屋にひやかしで入ったらラオス人の男性がやってきて指輪かダイヤモンドだか何かを買いました。その支払いの際に彼が持っていたボストンバッグをあけると割りと大きめのバッグでしたが札束がぎっしり詰まっていました。 

それが幾らくらいの価値があるのかわかりませんが、日本円にしたらきっとそれほどでもなかったかも知れません。特に金持ちに見える人でもなく現地の人にしてみれはインフレで紙幣の価値が無くなる前に金だとかダイヤだとかの後々換金できる商品にしときたかったのだと思います。 

インドでもある程度まとまった札束は勘定しやすいようになのか、まとめてホッチギスで留められているのを見ました。 

とにかく日本円でそう大した金額ではないにしろ、他人が見えるように持ち歩くのはお金だけにおっかねーです。

  

2007年12月01日21:29   3月28日(月) 
 朝8時に目が覚める。どうやら着換えずに長袖シャツにズボンをはいたまま寝たようだ。酔って寝たせいか変な夢をみる。インドが舞台でしかもやけにリアルだったので起きてもしばらくキョトンとしていた。 

 今、カルカッタ空港のラウンジで書いている、3時半の便がキャンセルになり、5時半のランチー経由パートナー行きに変更になる。 

 空港に来る途中のタクシーからの光景もカルカッタならではのものであった。市内とはいえ、燃料用に乾燥させるのが目的なのだろうか民家の外壁には牛糞が円盤型に成形され張り付いていた。 

 前を走るピックアップトラックの荷台に、白いシーツに覆われた遺体がガラスケースに収められ、運ばれていた。車が揺れるたびに台から落ちるのではないかとひやひやのしどおしだった。 

 道路脇の茶色く濁った水たまりで少年たちが水浴びをしている。5~6才の女の子が道路脇の縁石から道路にむけて豪快に用を足している。9億人の人口の2億人ほどが中流層で、60%ほどが貧困層だということだが、それがどれほどの困窮度なのか想像だにつかない。 

 家内がチケット変更の手続きをしている間に、20分ほど荷物のチッキ係の青年と立ち話をする。彼の失業中の兄が日本で働きたい意欲をもっているとのことで、日本についていろいろ質問を受ける。カルカッタへ来るときの飛行機の中で得た知識を受け売りで伝える。つまり、日本は給与も高いがその分、物価が高いこと。こちらで15ルピーで1kg買える米が東京では約700円、230ルピーもすることなどを伝える。 

 それには彼もびっくりしていたが、僕もこの経済のマジックというか、からくりは理解しているようで実際のところは戸惑っているのが実情である。 

 住所を訊ねられたので、紙に書いて渡すがまさか訪ねては来まい・・と思う。東京にはパキスタン人の友人などもいるが、経済格差や、為替のことや、国情などといったことによくこれまで無関心でいられたものだと我ながら呆れかえる。 

 考えれば、東京にはイラン、パキスタン、タイ、中国、南米諸国、フィリピンなどといった国から出稼ぎにやって来た人たちがかなりいる訳で、日本で1~2年稼いだ金で国元で家を建てただの、事業を起こしただのといった話も耳にする。 

 しかしそれも実際のところは、渡航費用をまかなう資金やら、労働ヴィザとの関わりだのといったクリヤーせねばならない問題が山ほどあってそう簡単に出稼ぎで来れる訳でもないのだろう。インド人もサウジアラビアやアフリカあたりに出稼ぎに行くようだが、日本で働いているインド人というのはあまり聞いたことがないのは何故だろうか。国交や、労働ヴィザの問題なのであろうか、不勉強でよく分からない。 

 当初、3時半予定のフライトが5時に、それからさらに6時半になる。その間、待合室で神戸の高校で美術を教えているという男性と会話を交す。40代半ばでインドは20年前に来て以来、四度目だそうである。ヒマラヤのトレッキングや、アジア街道、紛争前のアフガンにも行ったことがあるらしい。 

 南米だけはまだ行ったことがなく、ヨーロッパには何と8回も行ったそうで、いかにも旅慣れたベテランといった雰囲気で飄々としている。 

 彼の奥さんもやはり旅好きで、一緒に出かけたり、時には別々に旅をするのだと屈託がない。彼によれば20年前のカルカッタの状況は今よりもかなり深刻で、街を歩く観光客の後ろには一人当たりそれぞれ20人程の物乞いがつきまとっていたそうである。 

 パートナー空港に着くとデリーの旅行代理店が前もって手配してくれたファルークという50代の運転手が待っていた。ラジギールという所で宿泊の予定を飛行機が遅れたせいで、近くにあるウエルカムグループのマウリャ・パートナー・ホテルにチェックインする。一泊800ルピー(約2400円)だが、部屋自体は一流ホテルと較べて何ら遜色はない。 

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○ハラ 2007年12月01日 23:57 あんらぎさん、 
あまりよく知らない人に、名前はまだしも、住所を教えるのは考え物ですよ。 

この間の八重山旅行の時のフーテンの寅さんにも、住所は教えませんでした。 

私の元会社の人で、二人ほど、それぞれ台湾と韓国に出張に行って、現地のオネエチャンと仲良くなり、広島へ帰ってしばらくしたら、会社の門の所でそのオネエチャンが待っていた、と言うのがありました。 

その後、この二人はどう処理をしたか知りませんが、奥さんは日本人ですから、上手く別れたのでしょう。 

また、タイ人のオネエチャンを奥さんにした人も居ました。 
こちらは、正式に結婚したようですが、旦那が国内海外を問わず、出張に行っている間、タイへ帰っているらしく、お金が大変だ、とこぼしてました。 

男女間で無ければ問題無いかも知れませんが、やはり住所を教えると最悪の場合も想定しないといけません。 
教えるなら最小限の情報が良いと思いますよ、アド・レス(add less)と言うぐらいですから。 あんらぎ 2007年12月02日 10:41 ○ハラさん 
インド人の男性に住所を教えたのは僕もまずかったかなと日本に戻ってからちょっと気になってました。会話の流れとして、なんとなく断るのも悪いかなという気がしたんですね。今なら、eメールを教えればいいのでしょうが、当時はまだPCなども持ってない時代でした。 

タイへ行ったときも僕は家内と一緒ですから、変なとこへは行けませんが、パタヤの海岸のそばに屋台ふうに壁のない飲み屋が並んでいるところがあって、そこで家内も一緒に飲んだことがあります。そこにいた女性は色の白いエキゾチックな方でタイではなくラオス出身の人でした。 

彼氏が日本人だったらしくて、少し日本語も話してましたが、やはり日本人男性は転勤で住んでいた間の現地妻扱いで付き合っていたみたいです。西洋人でも年寄りが若いきれいな女性を同伴して歩いていたり、そうやって生きていかないといけない女性たちもたくさんいるのでしょうね。そうやって知りあった日本人男性を頼って来るというのもありそうな話だと思います。 

フィリピンではセブ島だったと思いますが、海辺のホテルでライフルを持ったガードマンがいて部外者は立ち入り禁止になってましたが、浜で泳いでいるとシュノーケルで潜ってきた20才くらいの若い男性が「私のお父さんは日本人です」といって袋に詰めたものを売りつけにきていました。浜辺にはあがれないようで海の中でその商品を見せようとしていました。 

日本人だけに限らず、経済格差を利用したお金で若い女性とどうこうというのはやはり哀しい気がしますね。またそういうふうにお金を稼がないと生活できない女性たちがいるというのも何だか切ないものです。 

僕は常に家内というお目付け役が一緒ですから、まあそういう機会には遭遇したことはありませんが、やはり一人でもそんなことは住まい、いやすまいと思います。