ニューメキシコ州(Yahooブログより転記)

New Mexico

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2007年10月09日00:01 
チャコというと「チャコちゃん」の四方晴美を思い浮かべる方はかなり古い。さらにフランク・永井の「夜霧に消えたチャコ」がメロディとなって頭の中を駆け巡った方はさらに古い。サザンの「チャコの海岸物語」を思い浮かべた僕も、とりあえずその3つとも知っているのでやはり古い人間には違いない。 

さて、ここでのチャコとはチャコ遺跡のことでニューメキシコ州のサンタフェの南にある1200年ごろに栄えた日干し煉瓦で作られたプエブロインディアンの集落遺跡である。 

写真もたくさん撮ったがPC不良でいずれフォトに掲載してこの日記と連携したいと思う。 

岩山と荒野に挟まれたチャコ遺跡は旱魃と乾燥化で水が無くなり見捨てられた集落らしい。最盛期は川が集落の側を流れ灌漑施設も完備された農業に適した肥沃な土地であったらしい。その後の旱魃でその土地に住むプエブロインディアンはそこから離散したといわれている。現在、ニューメキシコ州の各地に住むプエブロインディアンはその末裔だと言われている。 

日干し煉瓦で造られた遺跡は割合良い状態で保存されていた。集落の中心には集会や宗教儀式に使われたというキバという大きな円形の建物があった。土地を少し掘り下げ、そこに日干し煉瓦で周りを囲み茅葺きの屋根は中央が明り取り、煙突代わりに大きく円形に開いていた。 

住民の住む建物はアパートのように繋がっていて窓も入り口も小さい。部屋も三畳ほどのものが幾つも連なっていた。どちらかというと写真で見るようなモロッコあたりの家並みに似てなくもなかった。 

ある屋根のない建物に入ると、そのもう一方の出入り口の前に大きな蛇が長く寝そべっているのに出くわし一瞬びびってしまった。だが、ちゃんとその写真は撮った。蛇も僕に気がつくとおとなしく建物から出て行ったが、気づかずに踏んづけて毒蛇だったりしたらと今さらながら背筋が寒くなる。 

そのチャコ遺跡にはレンタカーで地図を頼りに行ったがとてもわかりづらい場所だった。 

途中でDetour(回り道)という案内板が立っていたのでその矢印の指している道へと左折したのが間違いだったようだ。干上がった川底を渡ったり、半砂漠の道、岩山のそばを走ったり、石油会社の所有する有刺鉄線で囲まれた広大な土地の脇をひたすら走った。 

どうもおかしいと感じて戻ろうかと思った頃に、はるかかなたからピックアップがやってくるのが見えた。車を停車してその車が近づくのを外に出て待ち手を振って停まるように合図を送った。 

その車は30~40m先に停車したまま車からは誰も降りてくる気配もなかった。多分、半砂漠の道でいきなり見知らぬカップルから車を止められて何が起こったのかなどと、用心していたのだろう。 

大きく両手を振りながらスマイルでその車に近づくと中から初老のインディアンのカップルが降りてきたのだった。こちらも彼らが悪い人ではなさそうなので安心したものだった。 

彼らの説明によると案の定、僕らは道に迷っていた。あのDetourの看板はあきらかに違う方向へと誘導していたのである。同じ道を通り戻るのではなく、その道から90度折れ曲がった道を走っていくと大きな舗装道路に出るから、そこから戻るようにしばらく走っていくと小さなスーパーがあるからそこで詳しく聞くようにと教わったのだった。 

翌日、さらに南にあるインディアン部落に寄った際にそこの小さなスーパーで道を聞いていると同じお客で学校の先生をしているという若いインディアン女性が話し掛けてきた。彼女もインディアンの生徒たちの引率で前日チャコ遺跡にスクールバスで出かけたのだそうだ。だが、運転手が道に迷ってたどり着けず、結局遺跡見学はあきらめて戻ってきたとか話していた。 

どうやら僕らの見たDetourの案内板に同じように引っかかったのだと思う。その案内板は砂漠に誘導するようになっていて、幸い、僕らはインディアンカップルの乗ったピックアップ車が通りかかったから何事もなく済んだがガス欠とかエンジントラブルにでも巻き込まれていたら大変なことになっていたかも知れない。そんなちゃこいいやせこいいたずらに乗せられて「夜霧に消えたチャコ」でなく「砂漠に消えたあんらぎ」になる所であった。

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千之家(せんのや ) 2007年10月09日 00:37 淡路島では女性器を 「チャコ」 という。 淡路島出身の上沼恵美子は、楽屋で 「お茶子して」 と言われ、赤面した。 上沼恵美子はサザンの 「チャコの海岸物語」 が歌えない。「夜霧に消えたチャコ」なんか恥ずかしくて・・・・ 
香川県とニューメキシコ州を姉妹都市交流させましょう。 ○ハラ 2007年10月09日 01:54 あんらぎさん、 
私は昔も今も、ランド・マクナリーの「ロード・アトラス」を重宝して使っていますが、その裏表紙に「間違った地図なら無い地図の方が良い」と言うのがありました。 

私はアメリカ駐在員に決まった時、先輩から「一人で空港から客先へ運転して行く時には道路の番号を大きく紙に書いて置いた方が良い」と言われ、A4の紙に、24W→5番出口→129S→サウス・ストリート、のように書いていました。 
しかしそれでもサインを見落として突っ走ってしまい、ガス・ステーションで聞いたら「あんたの居る所はこの地図の外だ」と言われた事が何回かありました。 

書いて置いてもこれですから、標識、案内板が違って居ればどうしようも無いですよね。 
始めの頃などは、道を尋ねるのに、聞いても、相手の言う英語が聞き取れず、どうなる事かと心細い状態でしたが、あんらぎさんのような英語達者でもこういう事があったんですね。 

やっぱりサインは確実な物であって欲しいです、「サインはV」で無いとね。 あんらぎ 2007年10月09日 09:59 千之家さん 
え~!そうなんですか??? 
チャコが××なんて初めて知りました。 
四方晴美もよもや知らなかったから「チャコちゃん」なんて演じられたんでしょうねぇ。 

すると僕なんざは淡路島でチャコ-ルフィルター付きの煙草を吸うと顔が赤くなるでしょうね。 
香川県とニューメキシコ州との姉妹都市を結ぶアイディアはいいんですが、なぜか理由が判明したらその話はおしまいになる可能性も大ですね。 あんらぎ 2007年10月09日 10:09 ○ハラさん 
僕の使っている地図はAAで無料で配っている各州ごとの地図です。全米の地図本も持ってますが、大きいし詳細も載っているのでその方が使いやすいです。 

知らないところへ行く時は紙に大体の手順(道路の番号、出口番号、右折左折)を簡単に書いておくのは僕もそれをしています。何度も行った場所でも出口番号とかくらいはやはりメモをもっていたほうがわかりやすいですね。 

あと、やはり幹線から大分はずれた小さな道路は地図にはほとんど載ってません。もちろんそれなりの地図もあるのでしょうが、一回行く為にだけ買うのは無駄な気がします。近くまで行って、人に聞くとか案内所でその土地の詳細な地図を置いてあったり、その地図にペンで行きかたを書いてくれたりするのでもっぱらそういうやりかたで大体の場所には行っています。 

大体方向の勘はいい方なので、あまり間違えないのですが、間違えてもちょっと景色のいいところを見たかったからなどと誤魔化します。道を間違えても急ぎでなければ同じ知らない場所を見学できるわけですから、無駄にはならないと思ってます。 

でも案内表示とか、工事のため通行止めDetour(回り道)とかになっているとやはりあわててしまいますね。サインはVで行きたいのですが、そのような時は(ハート)アタックNo1になりそうです。

  

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2007年10月06日21:29 

アルバカーキ-に居た3年前、ニューメキシコ大学のバスケットスタジアムで行われた500部族、3000人の出場者が集うWAWPAWというインディアン・ダンスコンテストを見た。全米各地から集まるそのアルバカーキー大会がもっとも規模が大きいらしかった。 

参加者は色とりどりの羽飾りに、女性はスパンコールのような衣装をつけて踊る。丸テーブルのような大きな太鼓を8人ほどの演者が長いスティックでたたきながら、ア~だのウ~だのといったうなり声を発する。その単調なリズムに乗って飛び跳ねるのが基本らしく、宗教的イメージの強いダンスであった。 

インディアンといっても一見白人にしか見えない人たちも民族衣装に身を包んで参加していた。インディアンと白人との混血は何代にも渡り進んでいるらしく、プエブロ族では確か6分の1かの血が混じっていればプエブロインディアンだと認めるとかいうような規定があるようだった。 

後で聞いた話によると、これまで白人だとばかり思って育ってきた人が自分にインディアンの血が混じっているということを知り、大学の奨学金の申請にそれを利用して申請が通ったとかでそれなりの特別待遇があるようである。 

やはりインディアンはなかなかアメリカの一般社会の中に入っていくのは難しい面があるのかも知れない。それでそういう奨学金などの援助が与えられているのだと思う。また会場では全米第一のスーパーマーケットであるWalmartでマネージャーをしている女性の短いスピーチもあって、誰でも努力すればこのように一般社会で出世できるのだというような話ではなかったかと思う。 

ニューメキシコ大学の学生食堂でインディアンのバンドが練習中にうるさいからと電源コードを白人の学生が切ったということで揉めてそれが人種差別だということで問題にもなっていた。やはりいまでも色んな問題で対立する根っこは深いものがあるのかも知れない。 

そのコンテストの途中でジーンズに帽子をかぶった熊のぬいぐるみが登場した。司会者から今日がその「スモーキーベア(Smoky Bear)」という熊の60歳の誕生日だと紹介があり、会場の子供も大人も一斉にハッピーバースデーの歌を歌い始めた。会場を埋め尽くすのはほとんどがインディアン独特の民俗衣装を着た人々という中での光景だったので何となく異様な中にユーモラスな雰囲気が漂ったのだった。 

後でニューメキシコ州南部を回ったときに通り過ぎたカピタンという小さな村に看板があり、そこがその熊の誕生地だと知った。50数年前にその辺りで大規模な山火事が発生し、その際、消防士が火の中から1頭の小熊を救出して全米で話題になり、後にスモーキーベアと名付けられたのが誕生由来らしい。その熊はワシントン動物園で長いこと保護されて人気者になり山火事防止のキャンペーンキャラクターとして活躍したのだそうだ。さしずめアメリカ人なら誰もが知っている、ミッキーマウスやテディベアのような存在なのだろう。 

日本でも多摩川で見つかったごまアザラシのタマちゃん、那珂川のナカちゃんなどのように、子供だけでなく大人も引きつける動物が時折現れるものだ。日中友好パンダのランラン、カンカンや、1975年に開催された海洋博会場にはイルカのオキちゃんなんて人気者もいた。 

思うに名護市辺野古沖に生息するジュゴンたちにも、この際ちゃんと名前をつけてあげたらどうだろう。単純に地名が辺野古だからって「への子」なんてのはダメだよね。メスならやはり「ノコちゃん」とか。オスはジュゴンだから「ゴン助」、あるいは「ゴンちゃん」。 

ごまあざらしのタマちゃんがかつて横浜市に住民登録されたくらいだから、この際ジュゴンには住民票どころか、県民栄誉賞をあげちゃいたい。その贈呈式を派手に行う。米軍基地反対運動なんて堅苦しいイメージを変えてジュゴンを守る県民大会かなんかをしちゃう。それだと先ごろ11万人を集めた「集団自決軍命令教科書削除問題」なんかよりもっと人が集まるかも知れない。 

会場ではノコちゃん人形に、ノコちゃんせんべい、ノコちゃんポーポー…。なども売り出しちゃって、どんどん観光客にも参加を呼びかける。 

やはり沖縄の目玉は観光だし、その最大の資源である自然を台無しにする政策は将来に渡って禍根を残すものではなかろうかと思う。さて、その案はいかがなものだろうか。           


*写真のスモーキーベアの誕生は1944年。広大なアメリカ国内には緑豊かな大自然が数多くあり、しばしば発生する山火事や原野火災を防ごうとキャンペーンを展開、そのイメージキャラクターとして登場した。6年後の1950年にニューメキシコ州で起きた山火事で奇跡的に救出された子熊は“実在するスモーキーベア”と呼ばれて人気を集め、1976年に首都ワシントンの動物園でこの世を去った後も、国民から愛され続けている。

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○ハラ 2007年10月06日 23:31 あんらぎさん、 
沖縄の各観光の目玉に、ニックネームを付けると良い、と言うのは賛成です。 

私が去年石垣島へ行った時、土産で買ったゴーヤーマンのキー・ホルダーは4個買って、完売即売り切れ(お金は取っていませんが)、4個の追加注文で今年もまた買い出しに行きます。 

ジュゴン・ハニーでもノコちゃんのネーミングでも構いませんから、売り出して欲しいです。 
人魚のモデルとも言われるジュゴン、胎生だから授乳させるんでしょうね、 
これもやはり弥勒世果報(ミルクユガフ)を願います。 あんらぎ 2007年10月07日 12:31 ○ハラさん 
ネス湖のネッシーとか屈斜路湖のクッシ-とか実在しない架空の動物でもそれなりにイメージキャラになってしまえば観光の名所になりますから、なにか強烈、親しみの湧くようなキャラクターはアイディア次第でヒットするとかなり地元に貢献しますね。 

ゴーヤ-マンは「ちゅらさん」からですよね。まだ人気があるのでしょうか?北海道の阿寒湖にはまりもを「まりもっこり」とか言ってイメージキャラがありますが、またそこからさらに「じゃがもっこり」とかいうのを無理矢理作ったのがあるようですが、安易なものはまたそれなりに淘汰されてすぐに消えるかも知れません。 

ジュゴンが授乳するところを人魚に間違えたという話もありますから、このミルクユガフという名前はなかなかいい名前になるのではないでしょうか。 
どういう意味なのと聞かれてミルクを飲むからと弥勒菩薩の光来する平和な世とをかけたあたりがなかなかいいアイディアです。

  

インディアン②

2007年10月05日19:58 
現在、アメリカではインディアンという呼び名は使われずに、ネイティブ・アメリカンという呼称になっている。元々そこに生活していたアメリカ人という意味である。 

西部、特にニューメキシコあたりの部族であるプエブロ族はアメリカ最大のインディアン部族らしい。広大な領地に自治権を持ち彼らの伝統的な生活を営んでいるようである。 

最近はそのような自治区でカジノやそれに付随したホテル経営をしているインディアンも多いようである。アルバカーキ-の近くのインディアン自治区にあるカジノに行ったことがあったが、客も当のインディアンが多かったように感じた。 

アパッチ族の自治区では彼らの自治警察があり、交通違反特にスピード違反は罰金が2倍だと聞いて用心して走った覚えがある。いきなり山の上からインディアンに取り囲まれ、馬で追われるというイメージを抱いたが、これは西部劇の見過ぎのせいであろう。 

時おり、インディアンとおぼしき人がヒッチハイクをしているのを見かけることもあった。手作りのインディアンジュエリーを観光客に売り歩いているのも見かけたものである。 

インディアンは数万年前にベーリング海峡を越えてアジアから来た人種だということだが、どうも僕には東アジア人種には思えない。どちらかというと彫りの深さからマレーシアあたりの人種と共通するものがあるような気がする。だが、サンタフェの北の方のインディアン村で見かけた子供は中国人と見まがうほどだった。或いは中国人移民の末裔だったのかも知れないし、インディアンのルーツというのは僕にはよくわからない。 

車で彼らの住む村に入っていって、車で追跡されたことが2度あった。車のあまり通らない道なので後ろにつけられているとすぐにわかる。スピードを落とし、停車してやり過ごすとやはりインディアンらしき男性が僕らをチェックするように見て去っていった。僕の顔を見てあるいは同じインディアン族かと思ったのかも知れない。 

西部のインディアンはそれぞれの部族語を今でも使用しているようだ。もちろん英語は学校で習う。インディアン同士は生活の場では彼らの部族語を使っているのだろう。 

ニューメキシコを走っているとインディアンのラジオ局も独自に持っているのか、それ専用の番組が聞ける。彼らの音楽、英語交じりの部族語などが流れていた。 

サウスダコタ州のラシュモア山にはアメリカの4大統領の胸像が並んで彫られた岩山がある。そこからほど遠くない岩山にそれに対抗するかのようにカスター将軍率いる騎兵隊を全滅させた若いインディアンの勇者であるクレージーホースと呼ばれた酋長の馬に乗った巨大な像が彫られて最近完成したらしい。 

まだ色々と問題は残されているのだろうが、人権が尊重される時代になって、彼らインディアン(ネイティブ・アメリカン)の名誉や人権の回復が行われてきている証なのかも知れない。

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欽坊 2007年10月05日 22:03 「イシグニ発見」なんて言って、1492年コロンブスのアメリカ大陸発見を覚えた。 
500年昔に素晴らしい冒険家がいたものだと感心したことを憶えている。 

その時すでに、インディアンと勝手に名付けられた人たちが生活を営んでいたのに、コロンブスが発見とは? 

という疑問を呈した本をどこかで読んだ。 
アメリカインディアンと呼ばれる人々と、東アジアの我々とは遠い遠い昔に血の交錯があったかもしれないのに、西欧文明の歴史観を基準にしている。 

歴史観の是非は措くとしても、僕自身は歴史を歪曲した側にいることを少し恥じ入る。 ○ハラ 2007年10月06日 00:37 あんらぎさん、 
アメリカの空挺部隊がパラシュートを着けて、飛行機から飛び降りる際に「ジェロニモ~」と叫ぶ、と言う話を前に聞いた事があります。 

ジェロニモとか、シッティング・ブルとか、クレイジー・ホースとか、レッド・クラウドとか、アメリカ・インディアンの話題がどこかで持ち上げられると、私の頭に浮かんでくる有名な酋長の名前があります。 

一族を束ねるために、ある時は先頭に立って、ある時は部族の人たちの話をとりまとめて、開拓民と戦ったり、あるいは政府の言う事を温和しく聞いてそれに従った人たちです。 

テレビ・ドラマ「水戸黄門」の主題歌の歌詞の中に、♪後から来たのに追い越され♪と言うのがありますが、後から来た開拓民に妥協しなければならなかった、これら各インディアン部族の酋長達の胸の内はどんなだったのでしょうか? 

今の日本も、一般なら定年をとっくに過ぎているお年の福田さんを首相にして舵を取って貰おうとしていますが、インディアンになぞらえれば、日本族も、若い酋長が政治を途中で放っぽり出したので、今度は長老政治でやって行こうとなって居るような気がします。 あんらぎ 2007年10月06日 02:13 欽坊 
そうそう、僕もその語呂合わせで覚えたアメリカ大陸発見年号を覚えている。インド大陸への航路を探して旅立ったコロンブスはアメリカ大陸の東にある西インド諸島(本人はインドに着いたと思ってつけたようで、それでネイティブ・アメリカンもインディアンと呼ばれるようになったのだろう)にたどり着いた。 

その日をアメリカ大陸発見の日と捉えるか、あるいは原住民虐殺、侵略の始まりの日として捉えるかはその歴史を見る目、歴史観で様々のようである。 

アメリカにはコロンブスデーといって、コロンブスがアメリカ大陸を発見した日を祝う日がある。ニューヨークでは大通りをパレ-ドしていて、コロンブスと同じく主にイタリア系アメリカ人やスペイン系のアメリカ人の行進が目立っていた。 

面白いのはその翌日、反コロンブスデーというのがある。これはメキシコ人や南米系のアメリカ人が古代インカやメキシコのアステカ族の衣装を着けてパレードしていた。つまりその日を侵略の日と位置付けている訳である。 

同じ歴史的な事実の発生した日でもこのように捉える視点が違うと祝日さえも違う。また、その両方をパレードで行進、意思表示するというのもこれも民主国家アメリカらしい気がしたものだ。 

歴史というものはついつい制圧者側の歴史観が表にでる性格があるように思う。虐げられ、滅ぼされた民族の声はなかなか届かない。権力によってそれが正しいとされるのが現実なのかも知れない。 

インディアン討伐の歴史も見直しがされてきてはいるが、やはり今でもインディアン=野蛮、悪というイメージを持っているアメリカ人は多数派かも知れない。 

権力による歴史の書き換えといえば、今日本で起きている歴史教科書書き換え問題もそうだ。当事者(集団自決を強いられた側)は軍の自決命令で起こったことだと主張すれば、いわゆる権力側はそれをお国のためにという美しい犠牲的精神の発露で行われた住民の意思による集団自決であるとしたがる訳だ。 

その方が、将来に渡っての日本人の歴史教育には権力者側には都合のいいことなのだろう。すでに、若い日本人には手榴弾の配布は集団自決を願い出てきた住民にその意思を覆させられなくて当時貴重だった手榴弾を住民が苦しまないで死ねるように温情でもって与えた・・という「美しい」幻想が史実にもなりうる訳だ。 

歴史を見る視点を様々な角度に置いてみるのも必要かと思う。 あんらぎ 2007年10月06日 02:31 ○ハラさん 
インディアンは割りと民主的な民俗だったらしいですね。粗野で野蛮なイメージはやはり西娯楽部劇でインディアンを悪者にしてきた弊害が多少ならずともありそうです。 

政府も平和条約を結び、インディアンを居留地に押し込むことに成功したあとも、そこで金が発見されたり、あとから開拓民がやってきたりと状況が変化すると前の約束を反故にしてまた未開の不便な土地へと強制移住させたりしてますしね。 

バッファローもヨーロッパ人が移住してくる前は北アメリカだけで5000万頭いたそうですが、現在は野生のバッファローはイエローストーン公園あたりに数千頭くらいしかいないそうです。 

バッファロー狩りは大陸横断作業者の毛皮コートを作るためとか言われてますが、実際はバッファローを全滅させたらそれに頼っているインディアンも絶滅するだろうということでもあったようです。天然痘菌をまぶした毛布を友好にプレゼントしたりと実際はあくどいことをしてますね。 

日本も酋長が長老に変りましたが、同じ自民党内でのチョロチョロした変化くらいではないでしょうかね。福田で福が呼び寄せられるかですね。「水戸黄門」も長寿番組ですね。「桃太郎侍」は終了しましたかね?今アメリカでは連続殺人鬼の番組が人気らしいですが、桃太郎侍はその連続殺人鬼以上の異常殺人者ですよね。 

毎回、10人くらい切り殺しているとして、月に40人、年に500人くらいになります。長寿番組で10年以上は続いてましたからそれだけでも5000人くらいの人間を殺している極悪非道なんですねぇ、桃太郎侍は・・ 

ひとーつ、人の世の・・ 
ふたーつ 不思議さ 
みっつ 醜い悪の世を 
よっつ 良かれと思って切っちゃうの 
いつつ いい人ぶってはいるけれど 
むっつ むっつりすけべの人殺し 
ななつ 泣く子も殺しちゃう 
やっつ やっつけ仕事で切っちゃうぞ 
ここのつ こらえ性のない 
とお   とおやまの金さん・・いや桃太郎だぁ!

  

2007年10月04日19:32 
ニューメキシコ州のアルバカーキーに住んでいた頃、インディアン部落を訪ねたことがある。 

覚束ない僕の知識だが、大雑把にわけるとインディアンには大草原でバッファロー狩りなどの狩猟を主にしていたティピーというテントで暮らしていた部族と日干し煉瓦で家を建て、とうもろこしなどの作物を育てていた農耕主体の部族であるプエブロインディアンがいるようだ。 

ワイオミングでは狩猟を主体にしていたクロウ族の村を訪ねたこともあるが、今回プエブロインディアンのことを書く。 

プエブロ族にはニューメキシコ州のサンタフェに近い場所にチャコ遺跡という日干し煉瓦で造られた村の遺跡がある。旱魃で作物が育てられなくなって見捨てられたらしいが、ほぼ建物は完璧に残っていた。 

日干し煉瓦で積み上げられた建物は草原を駆け回る狩猟主体のインディアンのイメージからは遠く、住居はモロッコなどの中近東の砂漠地帯にもありそうな窓の少ない建物であった。高度な農業技術と灌漑設備を持っていたようだが、そこを見捨てたあとは離散したと言われている。 

僕らが訪ねたインディアンの村はテキサスとの州境に近いそのプエブロ族の末裔だった。現在彼らの住む住宅は多少スラムの感じはしたが家はアメリカで普通に見られる建物だった。その古い村に入る手前には昔沖縄で外人住宅と呼んでいた平屋のコンクリートの建物が芝を挟んで並んでいる場所もあった。村の入り口から少し離れた観光案内所でパンフレットなどを貰う際に、写真は10ドル、ビデオ撮影は20ドル払うようにと係りに言われた。 

せっかくなので写真を撮ることにしたが、これといってインディアンの村だという際立った特徴はなかった。村の真ん中に少し崩れかけた教会があり、その前庭は墓地になっていた。クリスチャンとして埋葬されたインディアンのお墓で、ベトナムで戦死した方の墓には小さな星条旗が立てられていた。 

小さな子供たちも見かけたが、カメラを向けると家の中やトラックの陰に隠れてしまい写真は撮れなかった。日本の昔の田舎あたりで見かけられたような恥かしがりやの子供たちのようだった。教会の前で自分で彫ったという木彫りの鷲を売る若い男性が声を掛けてきたが、押し付けがましさはなかった。 

丸い形の赤い土で作ったパンを焼くかまどが庭や広場にぽつねんとあるのが印象的で、あまり人の気配のしない静かな村であった。その村にいる間中、人なつこい犬が僕らについて歩き回っていた。

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しろくま 2007年10月05日 11:49 最近は日本でも「インディアン」という呼び名を聞かなくなりました。 
「ネイティブ・アメリカン」という名前は、子供には言いづらいかも。 
「♪インディアンが通る、あっほいあっほいあっほいほい♪」という歌が、私の子供の頃はありましたが、今は教えないんだろうなあ。 

英語のインディアンの歌はどうなってるんですか? 
♪one little, two little ,three little Indian ♪ 
というやつ。 

インド人のことはなんていうんですか? 
インド人はヒンドゥスターニと言っているみたいです。 
ヒンドゥ信仰じゃない人は違うのかもしれませんが。 ○ハラ 2007年10月05日 18:04 あんらぎさん、 
私の会社の工場がケンタッキー州のホプキンスヴィルという所に出来た時、町の地図や案内を見て名所を回りました。 

その時、アメリカン・インディアンが強制移住で通った「トレイル・オブ・ティアーズ」というのがありました。 
開拓者の都合で今まで住んでいた土地を追われ、こちらに住むようにと言われたところへ温和しく移動するインディアンたち。 

西部劇では開拓者相手に華々しく戦いを繰り広げますが、実際には温和しく移ったインディアンの方が多かったのではないでしょうか? 

映画『硫黄島 父親達の星条旗』では、ヒーローとなったインディアンがバッシングを受ける様が描かれていましたが、人種差別の酷かった戦中、戦後もインディアンは苦労して居るんですね。 
開拓時代が終わっても苦労は絶えません。 

アメリカン・インディアンにもう心配しなくても良いんど、となったのはもっとずっと後の事なんでしょうね。 あんらぎ 2007年10月05日 19:10 しろくまさん 
確かに、今はインディアンという呼び名はネイティブ・アメリカンに変更されてますね。もともとのアメリカ人だということなんでしょう。 

little Indian boyもに「一人二人三人来た、四人五人六人来た・・インディアンボーイ」という日本語に訳詩された歌もありましたよね。この歌の2番はというか、10人9人8人減った・・と続く不吉な内容の歌でもあるんです。何だか、インディアン討伐を意味する歌とも取れますね。 

昔はエスキモーと習ったアラスカや北極圏に住む人たちのことも、いつの間にかイヌイットという呼び名に変ってますしね。エスキモーはカナダの北の方のインディアン(ネイティイブ・カナダィアンとでも呼ぶのかな?)が生肉を食う奴らという侮蔑語がオリジナルで、イヌイットは彼らが自分自身を呼ぶときの言葉なので変更になったようです。 

アジアのインディアン(インド人)は普通だとそのままインディアンといいますね。特に紛らわしいときはSouth west Indianと呼んでいるみたいです。 

差別語だとか言われたりして、言葉や人種の呼称も変化していくもののようです。 

ところで、オリエンタルという言葉もアジア人の蔑称みたいなところがあるみたいですね。オリエンタル・スーパーマーケットなどはいいみたいですが、人には使わなくなったそうです。僕はアジア人と言われるよりオリエンタルの方がエキゾチックな響きがするような気がした好ましかったんですが・・時代の流れで変ったようですね。 あんらぎ 2007年10月05日 19:32 ○ハラさん 
アメリカ開拓史でのアメリカへ移住してきたヨーロッパ人のネイティブアメリカンに対する仕打ちは歴史の汚点ですね。未開、野蛮人ということでいわば侵略には間違いないのですが、時代が時代とはいえもっといい解決法とかもあったろうにと思います。 

メイフラワー号でやってきたアメリカの父祖と呼ばれる人たちもとうもろこしの栽培法とかをインディアンから習ったりしてはじめて収穫のできた日を今でも感謝祭として祝ってますが、彼らにしても親切にしてくれたインディアンの酋長の殺害を図っていたようです。 

東部にいたインディアンたちも最初は友好的で、言われるままに条約を結び移住したりしてますが、移り住んだところで金が発見されたり開拓ブームで白人が押し寄せたりするとまたあらたな未開の地(岩山や砂漠が多い)に追いやられているわけですから、抵抗するのも当然だったと思います。 

強制移住の際には徒歩で行ったり、多くのインディアンが途中で亡くなり、寄留地にたどり着くのもやっとだったみたいですしね。 

中西部には他にもモルモン教徒らのたどったトレイルとか、他の一段のたどったトレイルとかがあり、その一部を見たり博物館で見たりしました。彼らは彼らでまた困難な生活をしていたようです。ちょっと変った岩山が目印として使われていたり、案内板などにその当時のことなどが書かれてました。 

後で、もっと詳しくそういうものも読んでみようと思いつつ結局はそのままになっています。やはり、その現場を訪れて興味が湧き起こった時にさっさと調べてみないとなかなか気分が乗らなくなって関心が薄れてしまいがちです。 あんらぎ 2007年10月05日 22:24 訂正  
しろくまさんのコメントの返事の 
South West Indian→South Asian Indianに訂正します。 
南アジアのインド人ということでしょうかね。

  

前にマイミクのGandhi Ganjeeさんがカーペンターズのカレンさんが拒食症(実際には摂食障害とかいう病名になるらしい)が原因の心不全でなくなったことを日記に書いていた。 

さらにこの間はやはりマイミクのさんきゅうさんがカレン・カーペンターズの特集をNHKか何かでやっていたということを日記に書かれていた。 

彼女の死に対しては当時そう太っているわけでもないし、小さな顔にその大きな腰と太もものアンバランスさがかえって魅力的に思えたので僕もその死亡の原因は何かなと疑問に思っていた一人なのである。 

それで、おふた方の記事をきっかけにGoogleしてみるとこれがカレンさんの死の直接の原因だとずばり書かれたものは目にしなかったけれど、彼女の抱えていた心の病気の一因になったであろうことなどの幾つかが浮かび上がった。 

子供の頃から母親が家長権を握り、兄リチャードの音楽的才能に対して彼のことだけを構っていた。両親が小さい頃から体に触れたりする愛情表現をしてこなかった。 

少女時代はかなりぽっちゃりしていて太り易い体質であったことから、デビューしてから下剤を利用しての毎日2リットルもの水を飲むという体を苛めるようなダイエットをしていた。 

デビューして苦労もせずにヒット作を出したが、結婚して家庭を作らなければという完璧主義に陥っっていた・・とか、兄の恋人にいやがらせをして別れさせるという自分が兄の保護者意識を持っていた・・とか、その一つ一つの要因がなるほどと思わせるようなもので、きっとそれらが複合的に絡み合った結果、心の病を引き起こしてしまったのだろうと思われた。 

身長が1m63cmなのに体重が38kgまで落ちたときでさえ、TVに写る自分の姿を見ては太っている、やせなきゃと言っていたそうである。 

などと書きながら、いつものことながら本題からはずれる。 

「トップ・オブ・ザ・ワールド」はカーペンターズのヒット作の一つであるが、ここでは地名として登場させたいと思う。 

場所はアリゾナ州ぞな。トリプルAの全米地図を見ても載っていない。アルバカーキーに住んでいた頃、アリゾナ州のフェニックスからニューメキシコ州のアルバカーキーの定宿としていたモーテルに帰る際に近道を通り街道沿いにある骨董屋に寄った。 

その骨董屋は店をやめるのだということで商品がすべて割引価格になっていたのだった。老年に差し掛かった女あるじに、その彼女のヒモっぽい前歯がかけた中年男性が店にいた。 

そのお店も土地、店、その店にある骨董すべてを含めて日本円で2千万円ほどで売りに出していた。建物は古く、そう大きくないが2棟に分かれていて土地はかなりの広さがあった。 

ショーウィンドーの中にかなり古臭いアクセサリーなどが入っていてなぜこんなものがここにあるのかと聞いた事から、そのアクセサリー類はここらで働いていた売春婦たちが身につけていたものだという話題になり、そこの地名が「トップ・オブ・ザ・ワールド」だということまでわかったのだった。 

あたりは昔銅山があったところだそうで、そのせいで売春宿が建ち並んでいたのだという。突拍子もないその地名の由来はそこから来たのだろう。 

銅山の鉱夫と売春婦との組み合わせから付いた「トップ・オブ・ザ・ワールド」 

カレンの天使のような歌声の「トップ・オブ・ザ・ワールド」とは裏腹にどこか切ない、物悲しい響きを持った地名だと思えたのだった。


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2007年08月30日
12:06
○ハラ 

あんらぎさん、 
思いこみ、という物には、良い事も悪い事もありますね。 

テレビのダイエット番組に応募してくる若い女性の中には、「え?この人が太ってる?」と思うような人が居ます。 
また、「うちの子は可愛くて」と、親が言うのでどんな可愛い良い子かと期待していたら、けっこうチョロチョロ動き回って我が儘で、自分勝手にウダウダ喋ってるだけの子だったりする事があります。 

売春婦も、先進国の淑女達から言わせればとんでもない存在でしょうが、金鉱掘りの荒くれ男ばかりの中では、天使にも見えるでしょう、第一そんなところに淑女は来ません。 

カントリー音楽に「It's Not A God Who Made Honky Tonk Angels」と言う歌がありますが、環境によって、思いこみは、世界最高にも最低にも感じさせてくれるようです。 

2007年08月30日
18:20
あいさいおじさん 

ある時我が英会話クラスで音楽のことが話題になりました。No Misic, No Life ということでは満場一致したのですが、じゃぁ、どんなジャンル、カテゴリーの音楽が好きか、ということになりました。当然カーペンターズという声はあちこちから上がって、みんなも“フムフム”とうなづきあっていたところ、Scottishの先生、Andyが“あんびりばぼー!シンジラレナァーイ!”と言い出したのです。カーペンターズのどこがいいんだ!、あんな音楽を聴く人の気が知れない!等々カーペンターズだけにたたきまくっていました。彼個人がカーペンターズのようなカテゴリーの音楽が嫌いなのか、スコットランド人の感性として受けつけないのかその時は聞かなかったのですが、(ていうか、聞くだけの英語力がなかった…、今もないかぁ…)音楽に関してはワールドワイドにポピュラーなものはあるのでしょうが、やはり地域性、国民性はあるんでしょうね。人文科学的にブルーグラスと日本の民謡を比較することはあるでしょうが、秋田や山形の奥地でニータカニータカとブルーグラスを演奏してもちょっと浮いちゃいますよね。Deep Southでプォ~、と尺八で民謡もちょっと厳しいですよね。同じ日本人であっても演歌一筋という人もいればクラシックしか聞きません、という人もいるわけですからね。 

このことで言えば、あんらぎさんが日本語を勉強したい、と言っているお嬢さんを教えた時に教材として森山良子のCDで“さとうきび畑”等々を聞かせたときの話を思い出しました。その家の家族の方もそれを聴いてその時の感想が“ハワイアンのようだ”と言っていた、ということでした。摺りこまれている音楽の感性が違うんでしょね。 

でも日本という国はすばらしいですね、世界中の音楽を楽しむことができるんですから。夏川りみ(早く復帰してね、ス・ワンダフルのCDだしてね)からセロニアス・モンクまで(○はらさん、ジャズも聴いてねぇ)Viva Japan! であります。 



2007年08月30日
20:14
○ハラ 

あいさいおじさん、 
あきさみよ~。 
痛いとこを突かれてしましました。 
ジャズですか、昔のジャズ、特にスウィング・ジャズは良いんですけどね。 

モダン・ジャズはねぇ~、私には難解なんですよ。 
難解放棄す(南海ホークス)。古っ 

2007年08月30日
23:41
あんらぎ 

○ハラさん 
確かに芋煮込みにうまいのやまずいのがあるように思い込みにも良い事や悪い事がありますね。 

特に思春期の自分の肉体や美醜に関しては単なるニキビに悩んだり、やせたの太っただのを気にしすぎたり、今になって思えば何でもないことに悩まされたりいろいろありますね。これも大人になると、ある時点で他人とはそう自分を意識などしていないという真実に気づくものなんですが、やはり自意識過剰な時代が思春期と言えるかも知れませんね。 

満足するという個人的な基準もそれなりにいろいろありますね。あまりにも完璧主義者を貫こうとすれば、現実と理想の間にあるギャップに悩む事になるし、トップ・オブ・ザ・ワールドの基準もそれぞれの人がそれなりに自分の心の中に基準があるのだと思います。 

汚れた天使、はきだめの天使、さまざまな場所にそれなりの天使が存在するのでしょうね。 

2007年08月30日
23:57
あんらぎ 

あいさいおじさん 
僕の音楽はラジオから流れてくるのをただ聞いているというくらいのもので、ジャンルはあまりわかりません。 

そういうことでは沖縄民謡から日本民謡、ジャズからブルーグラス、カントリー、範囲は広いのですが、底がとてもあさいです。そこが欠点でもあります。それでそこつものと時々言われます。 

スコッティッシュはチェックのスカートはいてバグパイプを吹いているだけですから、(僕のマイミクさんにスコッティシュがいて読んでいたらごめんな)カーペンターズの歌は理解できないのでしょう。もっとも正統派、あまったるい歌ばかりという批判は昔からあったのは確かですね。 

そうそう、ひさびさにジレットで17才だった女子高生に日本語を教えていたのを思い出しました。アニメから日本語や日本の文化に興味を持った子でしたね。確かに森山良子の歌やテネシーワルツを日本語で歌っているCDを貸して聞かせた覚えがあり、「さとうきび畑」がハワイアンに似ていると彼女の母親が言っていたそうです。 

音楽に国境はないとよく言われますが、音楽こそ国境のはっきりしたものはないかも知れません。その民族独特の感性や音感、リズムの違いなどは民族音楽それぞれの地域や国によってはっきりしたものだと思いますね。音楽に国境はあってもいいけれど、人間には国境はない方がいいと思ってます。 

クラシックジャズは気持ちを落ち着かせますが、僕も○ハラさんと同じくモダンジャズは長く聞いているともたんです。 

あいさいおじさん、○ハラさんと夏川りみ大ファンつながりですね。おふた方ともいろんな音楽の世界に造詣が深いようですから、是非僕の啓を蒙いていただきたいと思います。