2007年10月04日19:32 ニューメキシコ州のアルバカーキーに住んでいた頃、インディアン部落を訪ねたことがある。
覚束ない僕の知識だが、大雑把にわけるとインディアンには大草原でバッファロー狩りなどの狩猟を主にしていたティピーというテントで暮らしていた部族と日干し煉瓦で家を建て、とうもろこしなどの作物を育てていた農耕主体の部族であるプエブロインディアンがいるようだ。
ワイオミングでは狩猟を主体にしていたクロウ族の村を訪ねたこともあるが、今回プエブロインディアンのことを書く。
プエブロ族にはニューメキシコ州のサンタフェに近い場所にチャコ遺跡という日干し煉瓦で造られた村の遺跡がある。旱魃で作物が育てられなくなって見捨てられたらしいが、ほぼ建物は完璧に残っていた。
日干し煉瓦で積み上げられた建物は草原を駆け回る狩猟主体のインディアンのイメージからは遠く、住居はモロッコなどの中近東の砂漠地帯にもありそうな窓の少ない建物であった。高度な農業技術と灌漑設備を持っていたようだが、そこを見捨てたあとは離散したと言われている。
僕らが訪ねたインディアンの村はテキサスとの州境に近いそのプエブロ族の末裔だった。現在彼らの住む住宅は多少スラムの感じはしたが家はアメリカで普通に見られる建物だった。その古い村に入る手前には昔沖縄で外人住宅と呼んでいた平屋のコンクリートの建物が芝を挟んで並んでいる場所もあった。村の入り口から少し離れた観光案内所でパンフレットなどを貰う際に、写真は10ドル、ビデオ撮影は20ドル払うようにと係りに言われた。
せっかくなので写真を撮ることにしたが、これといってインディアンの村だという際立った特徴はなかった。村の真ん中に少し崩れかけた教会があり、その前庭は墓地になっていた。クリスチャンとして埋葬されたインディアンのお墓で、ベトナムで戦死した方の墓には小さな星条旗が立てられていた。
小さな子供たちも見かけたが、カメラを向けると家の中やトラックの陰に隠れてしまい写真は撮れなかった。日本の昔の田舎あたりで見かけられたような恥かしがりやの子供たちのようだった。教会の前で自分で彫ったという木彫りの鷲を売る若い男性が声を掛けてきたが、押し付けがましさはなかった。
丸い形の赤い土で作ったパンを焼くかまどが庭や広場にぽつねんとあるのが印象的で、あまり人の気配のしない静かな村であった。その村にいる間中、人なつこい犬が僕らについて歩き回っていた。
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しろくま 2007年10月05日 11:49 最近は日本でも「インディアン」という呼び名を聞かなくなりました。 「ネイティブ・アメリカン」という名前は、子供には言いづらいかも。 「♪インディアンが通る、あっほいあっほいあっほいほい♪」という歌が、私の子供の頃はありましたが、今は教えないんだろうなあ。
英語のインディアンの歌はどうなってるんですか? ♪one little, two little ,three little Indian ♪ というやつ。
インド人のことはなんていうんですか? インド人はヒンドゥスターニと言っているみたいです。 ヒンドゥ信仰じゃない人は違うのかもしれませんが。 ○ハラ 2007年10月05日 18:04 あんらぎさん、 私の会社の工場がケンタッキー州のホプキンスヴィルという所に出来た時、町の地図や案内を見て名所を回りました。
その時、アメリカン・インディアンが強制移住で通った「トレイル・オブ・ティアーズ」というのがありました。 開拓者の都合で今まで住んでいた土地を追われ、こちらに住むようにと言われたところへ温和しく移動するインディアンたち。
西部劇では開拓者相手に華々しく戦いを繰り広げますが、実際には温和しく移ったインディアンの方が多かったのではないでしょうか?
映画『硫黄島 父親達の星条旗』では、ヒーローとなったインディアンがバッシングを受ける様が描かれていましたが、人種差別の酷かった戦中、戦後もインディアンは苦労して居るんですね。 開拓時代が終わっても苦労は絶えません。
アメリカン・インディアンにもう心配しなくても良いんど、となったのはもっとずっと後の事なんでしょうね。 あんらぎ 2007年10月05日 19:10 しろくまさん 確かに、今はインディアンという呼び名はネイティブ・アメリカンに変更されてますね。もともとのアメリカ人だということなんでしょう。
little Indian boyもに「一人二人三人来た、四人五人六人来た・・インディアンボーイ」という日本語に訳詩された歌もありましたよね。この歌の2番はというか、10人9人8人減った・・と続く不吉な内容の歌でもあるんです。何だか、インディアン討伐を意味する歌とも取れますね。
昔はエスキモーと習ったアラスカや北極圏に住む人たちのことも、いつの間にかイヌイットという呼び名に変ってますしね。エスキモーはカナダの北の方のインディアン(ネイティイブ・カナダィアンとでも呼ぶのかな?)が生肉を食う奴らという侮蔑語がオリジナルで、イヌイットは彼らが自分自身を呼ぶときの言葉なので変更になったようです。
アジアのインディアン(インド人)は普通だとそのままインディアンといいますね。特に紛らわしいときはSouth west Indianと呼んでいるみたいです。
差別語だとか言われたりして、言葉や人種の呼称も変化していくもののようです。
ところで、オリエンタルという言葉もアジア人の蔑称みたいなところがあるみたいですね。オリエンタル・スーパーマーケットなどはいいみたいですが、人には使わなくなったそうです。僕はアジア人と言われるよりオリエンタルの方がエキゾチックな響きがするような気がした好ましかったんですが・・時代の流れで変ったようですね。 あんらぎ 2007年10月05日 19:32 ○ハラさん アメリカ開拓史でのアメリカへ移住してきたヨーロッパ人のネイティブアメリカンに対する仕打ちは歴史の汚点ですね。未開、野蛮人ということでいわば侵略には間違いないのですが、時代が時代とはいえもっといい解決法とかもあったろうにと思います。
メイフラワー号でやってきたアメリカの父祖と呼ばれる人たちもとうもろこしの栽培法とかをインディアンから習ったりしてはじめて収穫のできた日を今でも感謝祭として祝ってますが、彼らにしても親切にしてくれたインディアンの酋長の殺害を図っていたようです。
東部にいたインディアンたちも最初は友好的で、言われるままに条約を結び移住したりしてますが、移り住んだところで金が発見されたり開拓ブームで白人が押し寄せたりするとまたあらたな未開の地(岩山や砂漠が多い)に追いやられているわけですから、抵抗するのも当然だったと思います。
強制移住の際には徒歩で行ったり、多くのインディアンが途中で亡くなり、寄留地にたどり着くのもやっとだったみたいですしね。
中西部には他にもモルモン教徒らのたどったトレイルとか、他の一段のたどったトレイルとかがあり、その一部を見たり博物館で見たりしました。彼らは彼らでまた困難な生活をしていたようです。ちょっと変った岩山が目印として使われていたり、案内板などにその当時のことなどが書かれてました。
後で、もっと詳しくそういうものも読んでみようと思いつつ結局はそのままになっています。やはり、その現場を訪れて興味が湧き起こった時にさっさと調べてみないとなかなか気分が乗らなくなって関心が薄れてしまいがちです。 あんらぎ 2007年10月05日 22:24 訂正 しろくまさんのコメントの返事の South West Indian→South Asian Indianに訂正します。 南アジアのインド人ということでしょうかね。
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