Other Countries(Yahooブログより転記)

Other coutries

リスト | 詳細 ]

 
  検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

次のページ ]

  

キューバ①

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6 イメージ 7 イメージ 8 イメージ 9
イメージ 10

イメージ 10 

旅行中はネットが使えず12日ほど日本語にも触れなかった。

いざ、旅行から戻るといかに自分がネット中毒なのか実感する。日本語が使えない環境だと英語で情報を得るしかないが、日本に関する情報、ニュースは滅多にない。

多分、無理だとは思うが週一くらいにネットの日本語サイト解禁日とか設けないとほぼ毎日長時間もネット中毒生活をする破目になりそうな危機感を覚える。(苦笑)

キューバ旅行に関しても色々書きたいことがあるのだが、写真の整理だけでもかなり時間が取られそうな気がする。

ハイライト的に紹介して早めに切り上げよう。

キューバに関してはまったくの無知である。ただ、1962年のキューバミサイル危機に関しては当時小学校4年だった僕でも沖縄に核ミサイル攻撃があるのではという大人たちの会話の緊迫感は残っている。

1959年にカストロによるキューバ革命により、ソ連がキューバに核ミサイルを配備したことによって引き起こされたキューバ危機、核戦争による第三次世界大戦の可能性もあったらしい。

ケネディ、フルシチョフという米ソの両首脳による英断によって回避されたが、ウィキるとかなり緊迫した情勢にあり、様々な分野や司令官の措置によって紛争も起こさずに回避されたようだ。その間、わずか13日。

ゲインズビルという北の町に住んでいた頃、知り合いの家の裏庭に核シェルターがあって、中を見学させてもらったことがあった。

内部は2畳ほどの広さでキューバ危機以降に作られたのかも知れないが、壁には60年代のヒッピー文化であるサイケデリックなデザインが描かれていた。マリファナを隠れて吸うには絶好な場所だったのかも知れない。

キューバは英国、フランス、スペイン、アメリカの支配を受けてきたようだ。世界遺産に指定されているトリニダードの町はフランス文化、建築の影響を受けた教会や建物が並んでいる。

通りを観光バスで走っていても18世紀あたりにタイムスリップしたような印象と、補修、メンテナンスがされてない建物群もかなりあり、ブレードランナーのセットの中にいるような気もするそんな町だった。



備忘録としていくつかに分けてこれらの写真や印象、日記などを書いてみようと思う。

  

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6 イメージ 7 イメージ 8 イメージ 9
イメージ 10

イメージ 10

2月5日から14日にかけてセントラルフロリダのアートフェスタが進行中である。その期間中はBank of Americaや新聞社がスポンサーになって博物館や美術館、劇場が無料で入れるようになっている。 

で、6日の土曜日に第一陣としてオーランドにあるMatiland Art Centerに出かけてきた。早めにでかけるつもりが愚図愚図して家を出たのが3時ちょっと前、到着したのが4時頃だった。 

美術館は5時まで、隣接する鉄道、電話資料館は4時までということであわてて歴史資料館に入ったら閉館時間は過ぎていたが係のボランティアのお婆さんが親切にも30分に渡って昔の鉄道の資料や1900年初頭の電話交換所の様子がわかる展示室を案内してくれた。 

その後、メキシコのマヤ文明の彫刻や壁画の描かれた個人の家だったという美術館を見学、道を隔てた場所には右手にマヤ文明のイメージを表現した中庭、左側にはマヤ文明とキリスト教とが融合したチャペルがあり、僕らが中に入るちょっと前にはそこで結婚式が行われていた。 

美術館の方にも大きな庭があり、そこにはソファが並べられていてインドのサリーを着た女性が中に居たので許しを貰って庭を見学する。これから何か催しでもあるのかと聞いたら、7時からインドのパンジャブ州の祭りがあり踊りが披露されるとのことだった。これも見学できるのかと聞くと、30ドルと印刷されたチケットを只でくれたのだった。 

貰ったパンフレットを読むと、パンジャブ州のLOHRIという冬の収穫祭のようであった。地面にタイルの敷かれたステージの上で女性だけ、男性だけ、さらに男女が一緒になった踊りが披露された。ステージから数m離れた場所では薪が燃やされてその火の中に胡麻やポップコーン、キャンディなどを投げ入れて自分の願いを祈る儀式もあって、それにも参加させてくれた。 

ウイキペディアによるとパンジャブ州はインドの北西部にありパキスタンと接している州である。インドでも高い生活水準と収入を誇りシーク教徒の多い地方でもあるらしい。言語はパンジャブ語が使用されていて人口は2500万人と、州都はチャンディガールである。日本人ですぐに思い起こされるパンジャブ出身の方はというとプロレスラーのタイガー・ジェット・シンとインド人の演歌歌手をしていたチャドという方のようである。 

運のいい日はあるもので、本来は前の晩だったその祭りが雨天延期でこの日になったそうで、参加者もせいぜい10人以内の外部者を除いてはインド人のみのさしずめパンジャブ県人会といった趣だった。 

ブッフェスタイルのインド料理までご馳走になって気温は10℃前後と寒い夜だったが、サラダに入っていた非常に辛いさやえんどうのようなものによって胃袋はポカポカ暖かくなったのであった。

動画はこちらから
http://www.youtube.com/watch?v=266jH1WojsI&feature=channel
http://www.youtube.com/watch?v=_WnMmJQxhNw&feature=channel

  

シーサー牛?

イメージ 1

イメージ 2

写真はチチカカ湖界隈の農家の屋根に鎮座していた置物である。魔よけだと思うが、十字架を挟んで2頭の牛の像が置かれている。キリスト教と地元の信仰がミックスしているようだ。牛に魔よけの効能があるのか、それともいけにえの意味合いを持たせているのかも知れない。

下の写真は去年姉宅で小学校4年の姪が授業の工作で作った沖縄のシーサーである。今の小学校はちゃんとした窯もあるようで、なかなか本格的な焼物になっている。

沖縄のシーサーは獅子のことで、中国から伝来したものだが、さらにその起源はシルクロードを渡りペルシャから伝わったという説もある。最近は門の両脇に狛犬のように阿吽の形をした2頭のシーサーを置くケースもあるが、本来は瓦職人が余った瓦と漆喰でつくり屋根に置いて魔よけとしたものだ。

最近はいろいろとユーモラスな顔、形のシーサーも出回っているようだが、魔よけだけに顔は威嚇の表情をしていなければならない。

  

イメージ 1

写真は掲載しようかどうしようかちょっと戸惑っていた。イタリアでもアイスマンや教会に安置されている聖人のミイラ化した遺体とか、カタコンベの無数のどくろとか見学したことがあるが、いづれも写真は撮ってない。

教会の中や神聖な場所で撮影してはまずいのではという心理が働いてこれまで撮ってこなかった。それがどういう風の吹き回しか博物館にある学術的に研究、展示されたミイラはいいのではないかという考えになった。過去の人類の歴史としてその当時の文化や風俗、風習をうやまいミイラになられた方を尊重する気持ちを持って撮れば構わないのではないかと思い始めたようなのである。

前に紹介した400年前の6000mもの山の頂上で神にいけにえとしてささげられた美少女フアニータも撮影したのだが、写真が見つからない。ペルーでスマートメディア128MBをCDにしてもらった時に600枚ほど撮ったうちの400枚がCDに入っていなかった。ネットカフェの技術的なミスだと思うが、彼女は写真に撮って貰いたくなかったのだろうと理解しよう。といっても彼女の写真はポスター、絵葉書、本などにはちゃんと載っている。

写真のミイラはリマ市内の博物館で撮影したものである。砂漠地帯の乾燥したところでは自然にミイラ化するケースも多いらしく、これは人工的に作成したミイラではない。

死後、ミイラにするのはその当時の死生観と大きく関わっている。死んだ後は輪廻転生して生まれ変わるという考えがある。その時に肉体が滅びたままでは生まれ変われないからというのがそもそものミイラを作る発想ではないかと思う。しかし、輪廻転生して生まれ変わるにしてもその肉体がミイラでは元も子もないとも思えるのだが・・こればかりはよくわからない。

縄文時代の土偶もその死生観を象徴しているらしい。梅原猛氏の「古代幻視」という本によれば土偶はお腹を裂かれた妊婦の像らしい。彼はアイヌの老女から聞いた言い伝えからその謎を明かしている。人間は死ぬとあの世に行き、これまで亡くなった方たちと平和に生活したのちまたこの世に生まれ変わる。だが、産まれないまま妊婦と共に亡くなった子供はあの世へは往けないことになる。だから亡くなった妊婦をいったん葬り、あとで呪術をもった老婦人が墓に入り、妊婦の腹を裂き、胎児を取り出すのだそうだ。そして、その胎児を妊婦に抱かせて再び埋葬するというのである。彼はそのアイヌの伝説から縄文人の土偶もその象徴であることを導き出している。

ミイラというのがどういう死生観で作られてきたか僕には理解できないが、現代でも病気で亡くなった方を凍結保存して、未来の世界でその病気の治療法が出てきたときに解凍して治療を行うという冷凍人間が存在する。そしてアメリカにはそれを請け負う会社もあると聞いた覚えがある。

きっと昔も今も、死後の世界というこれまで行って帰ってきたことのない不思議な世界にはいろいろと人間の希望や妄想が形作られ、いろいろな死生観が生まれてきたのだろう。

  

ナスカの地上絵

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

さてナスカである。ナスカには巨大な謎の地上絵がある。その地上絵のことは子供の頃から知っていたが、それがペルーにあるとはこの旅行の計画時まで知らなかった。

砂漠の町イカを過ぎるとナスカまでの3時間ほどのバスからの光景は2,3の川のある村落を除いて砂漠である。遠くには樹木のない山々が見えた。イカで見た粒子の細かい砂の砂漠というより、土というか荒野といった方がいいかも知れない。

バスはパンアメリカンハイウェーという舗装された道を南下する。この道は南はどこまで続いているのかわからないが、北は中米を通過してメキシコまで続いているとのこと。或いは名を変えて、メキシコからアメリカ合衆国まで続く長い道かも知れない。

もっとも南北アメリカ大陸は陸続きなので、そこらにある道はすべてどこかの道につながりめぐり巡っては北はアラスカ、南はチリやアルゼンチンの最南端の岬あたりに延びているのだろう。ベーリング海峡を渡ってきたアメリカインディアンや南米のインディオはその大陸の道なき道を歩いてきた訳だ。

ナスカの地上絵を見つけたのは最初はアメリカ人の飛行士だそうだ。空の上から幾何学的に引かれた線を見て、古代の用水路跡だと思ったらしい。その後、その地上絵の描かれた溝の土砂を取り払ったり、研究をしたのはドイツの女性学者らしい。90才頃で亡くなるまで、その研究に尽くしたらしい。

写真の木と手の形の地上絵がある近辺はミラロード(展望台)の近くにあり、パンアメリカンハイウェーがすぐそばを走っている。地上絵の一部はそのハイウェーによって破壊されている。中は現在は立ち入り禁止になっているが、その以前に車の走ったタイヤ跡などが残っていた。

セスナ飛行機を敬遠していた家内が展望台から見るだけでは満足できずに翌日セスナに乗ろうと言い出した。

幸いシーズンオフですぐに乗れた。30分の飛行で一人50ドルである。リマの旅行代理店では150ドルすると聞いていたから直接買ったほうが安い。チケット売り場で家内が乗るのが怖いと言ったらそばに立っていた男も私もそうだ(me too)と言ったそうである。その男が僕らのパイロットだった。

セスナに乗り込む前に先に遊覧飛行をすました日本人ツアーの何人かの女性が気分が悪そうにベンチに座っていた。乗り物酔いだ。僕らが乗り込む寸前にセスナから降りてきた日本人のおばさんもしきりにおなかのあたりをさすって、気持ち悪いとツアー仲間にジェスチャーで知らせている。

後で、ガイドから聞いた話によると必要以上に機体を揺らすパイロットがいるらしい。セスナはパイロットも含めて4人乗りで家族と別に乗ることになったサンディエゴから来た初老の男性が助手席に座った。

機内から左右の窓を眺めて首を動かしていると気分が悪くなるので自分の席の窓からだけ眺めたほうがいいというアドバイスを受ける。セスナは一つの地上絵を左右一回ずつ旋回するので見逃すことはないそうだ。といってもやはりキョロキョロしてしまう。好奇心だけは押さえがたい。おかげで少し気分が悪くなった。

家内が揺らさないように飛んでとお願いしたせいか、セスナは割とスムーズに35分後には無事戻ってきた。助手席に座っていた男性は昔軍隊のパイロットだったという。その男性にパイロットが少しやってみるかいとハンドルを握らせた瞬間、少しだけ機体がガタっとバランスを崩した。すかさず家内が文句を言ったのですぐに現役パイロットに替わった。

セスナを降りると、パイロットのサイン入りのセスナに乗り地上絵を見学したという絵葉書大の証明書を渡してくれた。

写真はハミングバード、くじら、猿、手、木などである。アバタ-画像の写真は宇宙人?ということだが、ふくろう人間らしい。どうして古代ナスカ人がそういう地上絵を書き残したのか、大いなる謎であるが、調査によると古代のカレンダー、儀式、川の流れの変更をさす地図、そして星座をさす天文台でもあるようだ。紀元200年頃から、約400年にわたり描き継がれたもののようである。

ナスカの砂漠はその絵を描くのには好条件の広さと平面、いわば巨大なキャンバスだったという訳なのだろう。現代はパンアメリカンハイウェーという文明の一筆書きが加わっている。