トービーラーのバルサン物語(5)最終回Yahooブログより転記

トービーラーのバルサン物語

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佐渡山豊 「ドゥチュイムニー」 

http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND39172/index.html  
「ドゥチュイムニー」の歌詞 

バルサンはコザの町が那覇の町とは違った面に興味を抱いてしばらく滞在していた。たまたま覗いた映画館も椅子が那覇とは違ってアメリカ人に合わせて作られたのか背もたれも高くゆったりしているような気がしたのだった。 

邦画専門館で台詞で「ああ、そう」という日本語が聞こえると客席から「Ah,So」などとアメリカ人がそこだけは意味がわかるようで(偶然英語も日本語も意味が一致する)大きな声を出して笑ったりする声が聞こえてくるのだった。 

もっともそれは渥美マリ主演「でんきくらげ」とかいうような類の映画で、バルサンは純粋にくらげの生態を捉えた映画かと思って入ったのだが、そこで与儀の民家で新聞を丸めて自分を追い掛け回した男を見かけたような気もしたのだった。だがそれはバルサンの勘違いであったろう。まさか那覇からわざわざ時間をかけてそんな映画を見にきたりするアホはいないだろうとバルサンには思えたのだった。 

その頃、「紫」や「コンディッショングリーン」のようなロックミュージックはコザが全盛を極めていたが、実は沖縄のフォークソングもコザを中心にじわじわと流行っていたのであった。70年代初頭、沖縄には沖縄フォーク村というのがあった。だが、沖縄スプーン村や沖縄ナイフ村というのはなかった。ただし琉球グラス村というのはあったように思う。 

トゥンテトゥティトゥンティトゥティ♪という三線の爪弾きのような音がラジオから聞こえてきたことがあった。がなりたてるように歌う歌を聴いていると、それは三線ではなくギターの音でしかも出だしをウチナー口で歌っているのであった。 

それは「ドゥチュイムニー(独り言)」という歌であった。 

“我ったー島やウチナーぬ、コザぬ町どぅやいびぃしが、仲の町んかいやーぐわぁ借とぉる、いっぺーぼうちらぁわらばーやさ。ぐすーよーくーてぇんぐわぁちちみそーりよー、ぼうちらぁわらばーぬドゥチュムニー、ちんなみぬ違いや我慢そーきよー、歌ぐわぁぬ意味やわかてぃきれー。・・・・唐ぬ世から 大和の世 大和の世から アメリカ世 ひるまさ変わゆる くぬウチナー” 

訳;(僕は生まれは沖縄のコザの町で、仲の町に家を借りているとても無骨な青年です。皆さんちょっと聞いてください無骨男の独り言を。音のはずれるのは我慢してください、歌の意味はご理解ください。・・・中国の世から 日本の世 日本の世から アメリカの世 そしてまた大和の世と驚くように変化する この沖縄) 

コンサートでは延々10分以上も続く随分長い歌であった。佐渡山豊は1950年生まれで当時は琉球大学の学生であった。ボブ・ディランや日本では岡林信康から影響を受けたフォークシンガーで沖縄が復帰した1973年にメジャーデビューを果たし、しばらく活動をした後、沖縄に戻っていった歌手であった。 

他にも那覇には魔世中しんやというふざけた名前のフォーク歌手などもいたのであった。 

[解説] 

30年近い沈黙を破って、佐渡山豊が20世紀の終わりの年に帰ってきた。現在57才になるが、50才を目前にしてまた新たな演奏活動を開始したのだった。 

東京から沖縄に引き上げた佐渡山は一級建築士の資格を取り、米軍基地内の建築事務所へ仕事を見つけて、結婚、子育てと家庭を築きあげてきた。 

沖縄ローカルのCMで再び彼のデビュー曲「ドゥチュイムニー」が放映されたことが再び演奏活動をするきっかけになったようである。 

http://jp.youtube.com/watch?v=NeLSnUMVMY4&feature=related   
最近の佐渡山のコンサート 


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Nao san 2008年04月11日 12:00 沖縄は私にとっては異国のようです。 

うちなー口、 全くわかりません。柔らかい響きが何故か懐かしく感じます。沖縄生まれの人にとっては沖縄の全てが愛しくかんじられるのでしょうね。 

佐渡山豊 

若い頃の高音はだいぶ苦しいです。 

すすり泣くようなヴァイオリンとよいハーモニーで楽しみました。 ○ハラ 2008年04月11日 12:02 ははあ、やはり那覇とコザとは違っているのですね。 

アメリカ人相手の店や映画館があるから、コザはそんな事もあるのかな、と頭では想像していましたが、イザそう聞いてみると、なるほどねえ、と思います。 

音楽もアメリカ人相手に演奏するとなると、やはりいい加減、と言うわけには行かないでしょうね。 
琉球の音楽を沖縄の人相手に演奏するのと同じように、聞く人は耳が肥えているでしょうから、間違ったりおかしかったりすると、反応がすぐ返ってくる気がします。 

こう言う所で鍛えられると、日本全国、いや世界のどこへ行こうと通用する気がします。 
音楽は世界の言葉、日本語とか英語とかの言葉の違いは分からない事もありますが、音楽は分かるから妥協も東京もありません、あるのは逆境のみです。 あんらぎ 2008年04月12日 09:58 Nao san 
>沖縄は私にとっては異国のようです。 

無理もありません。 Naoさんだけでなく本土の人たちにとっては沖縄は異国のはずです。1609年、薩摩が琉球を侵略する前までは琉球王国だったのですから、大和とは違う独自の琉球文化を育んできたところなのです。 

また戦後は27年間もアメリカの施政権のもとにあり、さらに大和とはまた違う風土を培ってきたのでしょう。アジア全般が中国の影響を(日本も含めて)受けてますが、沖縄はその琉球独自の土着の文化に中国や東南アジア、日本の文化の影響を受けて独自の文化が形成されてきたところですね。 

そのことが、以前は沖縄の人間にとってはコンプレックスでもありました。ところが最近、琉球ルネッサンスとでも言っていいほど、沖縄が自分たちの文化や歴史に誇りを持ち始めているようで、旧人類のワタクシも喜ばしいことであります。 

ただし、若者からはいわゆる琉球語はほとんどわからなくなっている現実もありますが・・ 

7年ほど前にNHKで放映された「ちゅらさん」という朝のドラマから沖縄ブームが起こったのではないかと思います。本土からはアメリカだとフロリダのように移住したいという人たちもたくさんいて、実際に移り住んでいる人たちもたくさんいるようです。狭い島なのでそれが将来どういう影響を与えるのかどうかが、少し気になるところではありますが、まあポジティブに考えれは沖縄が活性化されていいかも知れません。 

ただ、現実は今だに日本とアメリカとの二重の植民地だと表現する人もいますね。いろいろ複雑な問題が横たわっているのは今でも事実です。 

あんらぎ 2008年04月12日 10:05 ○ハラさん 
同じ沖縄の人間でも那覇で生まれ育ったものから見ると、コザの音楽や八重山出身の人たちの音楽的才能には驚きです。 

まあもともと音楽は琉球王朝時代から大和は床の間に刀を飾る、沖縄は床の間に三線という楽器を飾るといわれてましたから伝統的に音楽や歌が巷にあふれる要素はあったかも知れないですね。 

三線奉行という役所もあったそうですからね、 

首里城を見てもわかるように、首里は城とはいっても戦争で防御するような城ではなくて、今でいう迎賓館みたいな場所ですね。そこへ冊封使という中国からの訪問者を歓迎するようなところです。それを歌や舞踊でもてなすということで音楽が隆盛を極めたようです。いわば平和外交をしていたんですね。 

そういう土壌の中からこれからもっともっと若い音楽の才能のある人間が育ってくるのではないかと期待したいところです。

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産後まで、まってて~・・・・削除

2008/7/19(土) 午後 0:40xrg*m*04返信する

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http://jp.youtube.com/watch?v=nFJ0lgdHx6k  
Stay with me

http://jp.youtube.com/watch?v=drn2yFyFWwM 
Condition Green

バルサンはその後もコザ市にとまどって、いやとどまっていた。
いきなりのMPの銃の威嚇発射、それに抗議する住民の米軍関係車両に対する焼き討ちとコザのセンター街を中心にしたアメリカナイズされた通りの様相など、那覇市のはずれから来たバルサンにはもの珍しいものはかりであった。

通りに面した商店にはジャンパーや服に刺繍をする店、タトゥの店、Pawnショップという質屋、靴屋、洋服屋、おおむねアメリカ兵を相手にした商売をするお店が英語の看板を掲げて軒を並べていたのであった。

代書屋などというものもあった。これはアメリカ兵と沖縄の女性との間の交渉ごとや手紙の翻訳を引き受けている商売のようであった。

アメリカ兵の中には家族で赴任、中流している人も多くいた。その人たちが本国に帰ることになって処分した家具や電化製品を扱う業者もあった。

当時は沖縄では100ドルも給料があれば高給取りであった。1000ドルではそこそこの一軒家が建てられると言われていた。もっとも1ドル360円の時代であり、その価値はかなりあった。ぺえぺえの新兵の給料でも沖縄の人間からしたらかなりの高額なのであった。

アメリカの国内事情を反映してなのか、白人兵の飲み遊ぶ場所はゲート通り黒人兵の飲み遊ぶ場所はちょっと裏通りに入った薄暗い照屋街と呼ばれる一角にあった。暗い夜の中を黒人が歩いているとその白い歯と掌だけがしろく闇に浮かぶのをバルサンは見るのだった。

当時のコザ市は連夜、ベトナムの前線に行く兵隊、あるいは休暇でベトナムから戻ってきた兵隊たちが町に繰り出して飲み歩いていた。そんな兵隊たちに人気のあったのが「紫」と外出禁止を意味する「コンディッショングリーン」という二つのロックグループであった。

ジョージ紫率いる「紫」は割りとアメリカンロックのコピーの演奏が多かったようだが、アメリカロックで育ったアメリカ人を相手にその評価は高かった。

一方、カッチャン率いる「コンディッショングリーン」はステージで蛇の首を切り落としどくどく流れる血をそのまま口に入れて飲むといったバイオレンスなステージで知られていた。

どちらのロックグループにもおっかけをする兵隊がいるほど人気があったそうである。

いづれにしても気に食わない演奏だとステージにビール瓶が飛んでくるといったことも珍しくかったというから、ミュージシャンも命がけで必死に演奏したのだろうとバルサンは思うのであった。

[解説]

・「コンディッショングリーン」のカッチャンは還暦を過ぎた今でも現役のロッカーとして活躍している。映画「琉球カウボーイよろしくございます」では糸満の空手名人として出演している。

・ジョージ紫は作曲家としても現在も活躍。息子たちがロックグループで演奏活動をしているらしい。
‘’Stay with me“を歌っていたボーカルの城間は紫でもボーカルを勤めていた。彼は双子で活躍していたが、どちらがそうなのかよくわからないが何年か前に婦女暴行未遂とかで逮捕されている。

・写真は「紫」のメンバー

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ウチナーおじさん、お久しぶりです。カッチャンのライブハウスには、沖縄に赴任した米兵の息子が、「親父がお世話になりました。」と二世までがライブハウスに来る時代になりました。アメリカ世から大和世にかわった時の流れを感じます。削除

2008/4/29(火) 午後 11:21chu*aum*y2 ]返信する

  

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Churaumiy2さん
おひさしぶり。「オキちゃん物語」のオキちゃんの飼い主の方は僕のミクシィでマイミクになっていますよ。チオビタさんもどうしているのかな。お姉さんのご病気はどうなったのかななどと時折思います。

この「バルサン物語」はバルサンの目を通して日本復帰する前後の沖縄をゴキブリ視線から眺めていますが、もうよーんなぁ、よーんなぁ書き続けていきたいと思っています。
Churaumiy2さんからの情報の提供、かなり参考になります。
しかし、この頃の若い沖縄の世代の音楽や役者としての中央進出には目を見張るものがありますねぇ~!削除

2008/4/30(水) 午前 0:08anr**i2hi*o返信する

  

うわ~~~~~・・・・
よみたいいいいい・・・・・
ううううう 我慢我慢あ~・・・・この衝動をどうにかして~・・^^
産後のたのしみが~・・・・・・・・・ToT・・・
今日は、やっぱり半端読みで引き上げです。
ァ~・・ダイエットと同じくらいに我慢の子。削除

2008/7/19(土) 午後 0:35xrg*m*04返信する

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12月20日の午前1時を回る頃にねぐらを探してコザ十字路に差し掛かったバルサンは大きな自動車のブレーキ音を聞いた。それは軍雇用員の男性が米兵の運転する乗用車にはねられた音であった。バルサンはまさかその事故がコザ暴動事件という歴史にも残る事件の発端になるとは知るよしもなかった。

事故に駆けつけたMP(軍警察)は被害者を放置して、事故車を持ち去ろうとした。その事故に駆けつけ見守っていた群衆はいつの間にか千人ほどになっていて、「どうせ、また無罪なのか!」と怒りを顕わにしながら米軍の対応に非難を始めていた。

このコザ暴動事件に見られる米軍関係者による犯罪にはそれ以前からの目を覆う伏線が幾つもあった。1970年前後の外国人犯罪(ほぼアメリカ人)は年間千件の犯罪(殺人・強盗・婦女暴行等凶悪なものが多い)に登り、さらに米軍関係者による交通事故に到っては年間3千件にも達していた。

そしてこれら全ての犯罪、事故に関して、捜査権のない沖縄警察は無力で手をこまねくしかなく、MPによる処理(証拠隠滅)、非公開軍事裁判(上告ができない)といった過程を経て加害者の米兵は無罪あるいは軽罰に処理されてしまうのが常であった。

しかもコザ暴動事件のあった1970年の9月19日には沖縄本島南部にある糸満のロータリー付近で、米兵(軍曹)の酔っ払い運転により歩道を歩いていた女性(54歳)が圧殺されていた。地元の青年たちが中心になって、証拠隠滅の恐れのある事故車のMPへの引き渡しを拒否、さらにロープ・テントで監視体制をつくるなどの対策が取られた。

さらに事故対策協議会(地元青年団・人民党・社会党・教職員会など)を発足させ、警察を通じて米軍に厳重な公平なる事故捜査と司令官の謝罪・軍事裁判の公開・遺族への完全賠償を要求していた。だが、その裁判も非公開の軍事裁判で12/11「証拠不十分」により加害者には無罪判決が下りたのだった。

そういう状況の中でのコザでの新たな米兵による交通事故である。群集が怒りを顕わにするのも当然のことであった。米兵を取り囲む群衆が怒りを新たに暴動行為に走ったのは投石を恐れたMPが銃を空に向けて発射したからだということになっている。だが、ことの発端は空中から事件現場に近づいたバルサンを見て、異常にゴキブリ嫌いなシカーン・ヤナヒーラーというMPが思わず、バルサンに向けて銃を発射したからであった。

この事件がこれほど大きなものになるとはバルサンも予想だにしてなかったのである。

その発砲は事件現場を取り囲んでいた群衆の怒りに火を注いだ。その怒りの輪に挟まれたMPらはさらに銃を威嚇発砲しながら加害者ともども事件現場からの逃亡を図ったのであった。

つまりこのコザ暴動は計画的になされたものではなく、米軍の一方的な交通事故処理に対する怒りの発露であった。25年間のアメリカ軍統治による沖縄人の人権が蹂躙され続けてきたことに対する抗議の現れだっったといえよう。

事件の経緯は以下の通りである。

ピストルを発射しながら、MPは逃亡する。
→事故を起こした教務兵は袋だたきにされる。
 MPカー・米軍トラック・黄ナンバーの乗用車を引きずり出し、次々と火をつける。
 ※家屋に飛火しないよう、道路の中央に引きずり出してから、火を放っている。
  家屋から略奪の被害届けは一件の報告もない。
→午前2時半、5千人を超えた群衆は、中之町交番・諸見交番にも、投石をはじめる。
 胡屋十字路~普天間~北谷、ゲート通り~嘉手納第二ゲート、次々と米兵車輌に放火。
→米兵2百人(カービン銃武装)・機動隊百人で、ゲート付近に阻止線をはる。
 群衆はなだれ込み、ガードボックス・米人学校などに放火。
 米兵2百人に沖縄人ガード50人を加え、ゲートから押し出される。
 機動隊5百人が増援され、MPと群衆の間にわって入る。
→午前4時半、各所に機動隊・米軍(ガスマスク姿)の阻止線、上空のヘリからも催涙ガスをまく。
→夜明け頃、群衆はどこともなく引き上げ始める。
黄ナンバー75台炎上、19人逮捕、警官5人・沖縄人十数人・米兵十数人が負傷(警察把握)。
1971年 1/8
騒乱罪適用。10人(バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人)を逮捕
→騒乱罪では起訴できず。

*シカーン・ヤナヒーラー  沖縄方言でシカーンは好かん、ヤナヒーラーは嫌なごきぶりの意味、もちろんジョークですよぉ。

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コザ暴動が初めて良くわかりました。ありがとやんした・・・とは「にゃん」の弁。削除

2007/2/7(水) 午後 0:26にゃん返信する

  

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はじめまして。mixiから辿ってきました。 私はコザ市生まれです。 母と友人はこの日、仕事帰りにアメリカ人の奥さんに車で送ってもらっていたそうです。道路を歩いていたうちなーんちゅのお兄さんが、同乗している母を見つけて「この道は進むな、引き返せ」・・と言ったので、この奥さんの車は無事だったそうです。削除

2007/2/7(水) 午後 9:44atulaa ]返信する

  

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myaoさん、そういう歴史があったんです。時代は移り交わしましたが、まだまだ沖縄には底流を流れる部分でコザ暴動の無意識の下に潜んだ感情があります。日本全国の人たちにもそれを理解してもらいたいものです。削除

2007/2/8(木) 午後 0:53anr**i2hi*o返信する

  

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atulaaさん、具体的な様子をもうすぐ書こうと思ってますよ。僕は高校生でしたが、同級生には翌日、現場を見にいった人もいましたね。削除

2007/2/8(木) 午後 0:55anr**i2hi*o返信する

  

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ウチナーおじさんへ、過去の沖縄情報は「沖縄県公文書館」のサイトに復帰前の写真や動画が公開されていますのでのぞいてください。ここhttp://www.archives.pref.okinawa.jp/削除

2007/2/15(木) 午後 3:54chu*aum*y2 ]返信する

  

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Chyraumiy2さん、どくも毎度のサイト紹介をありがとうございます。バルサンも伊佐浜からコザにかけて、チルダイしているのか、なかなか前に進みませんね。これから具志川を抜けて、石川、さらに西海岸へ飛び、恩納、名護、本部、ヤンバルへとの飛行予定です。これは、まぁもうゆっくりと飛んでいこうと思ってます。削除

2007/2/18(日) 午後 2:02anr**i2hi*o返信する

  

糸満ロータリーの話、初めて聞きました。いまだに知らないものだらけです。削除

2007/4/26(木) 午後 10:07oki*awa*l*fe*979 ]返信する

  

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^^ごぶさたです。久々コメントしてます。いつも、更新時に読もうと思いながらも、スーミーのつもりで読んでしまう・・バルサン物語はやっぱりおもしろく、お勉強そのものです。うん。。 更新も、負担の掛からないようにゆっくり更新して行きますので、ヨロシクお願いします。^^と言いつつ次が読みた~~~~~~~~いい・・削除

2007/5/18(金) 午後 7:08xrg*m*04返信する

  

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ゴキブリのバルサン、MPの発砲にどぅまんぎた(驚いた)のか、腰を抜かしてしまいなかなかコザの町から離れられません。近日、続編を書こうと思います。削除

2007/5/31(木) 午前 0:46anr**i2hi*o返信する

  

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はじめまして。69年夏、沖縄に行こうとして渡航不許可となったヤマトンチューです。ネット・サーフィンで辿りつきました。コザ義挙の現場に立ち会いたかった。闇に響いたという美しい叫び、タックルセー! を聴きたかった…。もっと詳しく教えてください。削除

2009/11/10(火) 午後 0:40row**ai ]返信する

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バルサンはライカムからコザ十字路を経由してコザ市に入った。現在は沖縄市という名に変ったが、戦前は越来村と呼ばれた地域で、1945年に嘉手納に上陸した米兵が字胡屋をコザと誤読したとも古謝と混同して呼んだのが始まりとも言われている。日本では唯一カタカナ名の市であった。

戦前は人口7000人ほどの小さな村に過ぎなかったが、戦前戦後を通してアメリカ軍が野戦病院や物資集積所などを建設したことと「難民収容所」もあったことから戦火で焼きだされた人や他所からの流入者などが多く集まり住むようになった。

その後、アメリカ本国以外ではアジア最大の米軍飛行基地となる嘉手納基地を控えて米兵を相手にした飲食店などが建ち並び1956年には「コザ市」となった。総面積の63%が基地で占められていて、人口は6万8千人だが、夜は9万人にのぼる。市経済の80%を基地経済に依存していて労働人口の80%がサービス業に従事している。(1970年)

さて、バルサンはどこかアメリカの中西部にありそうな小さな町かとも見まごうコザの町をゆっくりと旋回しながら眺めていた。道の両側にはアメリカ人相手のテーラーや飲食店、ポーンショップ(質屋)、刺繍屋、翻訳業、刺青店などが英語の看板を掲げて連なり、とても日本の街には見えなかった。ベトナム戦争の最中、アメリカ黒人公民権運動の影響も地元にその光と影を投げかけていた。

白人兵の飲む場所はゲート通りと呼ばれる嘉手納基地の正門前の通りが中心になっていた。黒人兵はそこからさらに離れた照屋街と呼ばれていた場所で飲んでいた。そこでは右手のこぶしを突き上げたまま肘の近くをお互いに強く交差するようにぶつけあう黒人兵の姿が見られた。黒人差別を訴えるデモンストレーションであった。地元の沖縄の人たちはというと大きな通りからいくつか奥まった仲の町社交街と呼ばれる場所が大体飲む場所のようであった。

ベトナム戦争の真っ最中で、前線行きが決まった兵士はこの世の見納めとばかりにコザの町に繰り出しては酒を飲み、女性へ乱暴したり、タクシー強盗を働く者、暴力事件を起こすものなどが後を経たなかった。その頃、アメリカの兵隊はAサインバーというアメリカ軍の営業許可のない店には入ってはいけないことになっていた。その営業許可証を持つ店で、アメリカンロックのライブをする店はお店のキャッシャーでは間に合わず、ドラム缶を備えてその中に兵隊の落としていくドルを突っ込んでいたというエピソードさえあるほど儲かったらしい。

かっちゃん率いる「コンディッショングリーン」というアメリカの非常事態の外出禁止を意味するロックグループやハーフのメンバーが活躍していた「紫」は人気の高いロックグループであった。

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Aサインってこういうやつだったんだ。見られて嬉しいです・・・とは「にゃん」の弁。削除

2007/2/5(月) 午後 4:06にゃん返信する

  

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他にBサインとかCサインとかがありま・・・せ~んでした。AサインとはAproval(認可)の意味ですね。この許可証のある店以外は米兵は立ち入り禁止でした。女性従業員は性病検査が義務付けられていました。削除

2007/2/7(水) 午前 11:17anr**i2hi*o返信する

  

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はじめまして。文末にあるコンディショングリーンのことを調べてるうちにここに辿り着きました。突然で申し訳ないのですが、教えていただきたいことがあります。コンディショングリーンはマリーンに人気があったと聞いているのですが、当時の沖縄で、あるいはマリーンの間ではどんな音楽が流行っていたのですか?お答えいただけばうれしいのですが。よろしくお願いします。削除

2007/4/26(木) 午前 1:41alo*aa*rlin* ]返信する

  

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今は、コザの町も、だいぶ変わっていますよ。良いのか・悪いのか、少しずつ普通っぽくなってきたかな・・・って気がするよ。にしても、想い出すごいな~・・・ほおおおおお削除

2007/5/18(金) 午後 6:49xrg*m*04返信する

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バルサンは伊佐浜を飛び立ち、普天間神宮を越え北東のコザ市を目指していた。
このあたりを上空から眺めるとまるで外国のような風景が続く。

道路の両側が金網で囲われていて、中には久場崎ハイスクールという
アメリカ人軍属の子弟の高校がある。

コザの町に入る直前にライカムというやはりカタカナの地名があった。
この名前はアメリカの軍司令部が置かれていたことに由来するらしい。
ライカム(Ryukyu Commander)とかいうのが縮まったようだ。

アメリカ軍のPX(兵隊向けの免税品スーパー)もあった。
屋宜原というところには日本で最初に出来たドライブインレストランの
A&Bもあったし、車に乗ったまま見ることの出来るドライブインシアターもあった。
ヒルトンホテルもありアメリカの雰囲気のする地域であった。

こういうジョークが残っている。

「ファーストチキン クライ、ユーカム アイカム ライカム」
この意味は一番鳥がなく頃にあなたも来て、私も来て ライカムであいましょう
まったくイージーな英語であるが、ジェスチャーも交えて案外通じたかも知れない。

軍用車や大きなアメ車が走り回り、そこは沖縄というよりアメリカそのものだった。

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あけましておめでとうございます。本年もアメリカよりウチナーの風を吹かせてください。それはそうと、ライカムの由来は勉強になりました。わたしは、てっきり「ライカム」という人名と思っていました。短縮形だったのですね。最近、日本の若者は、「あけましておめでとう」を「あけおめ」ですませますが、これと似たようなものですね。削除

2007/1/7(日) 午前 1:30chu*aum*y2 ]返信する

  

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小禄にはペリーという地名がありましたが、あれはきっと黒船に乗ってやってきたアメリカのペリー提督からついたのでしょうね。ムーンビーチなんかも地名になっているし、案外そういうカタカナ地名は沖縄にはあるのかも知れないですね。Churaumiy2さん、今年もきんたま(謹賀新年、またまたよろしくの略)削除

2007/1/7(日) 午前 4:38anr**i2hi*o返信する

  

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ウチナーおじさん、こちよろ(ことしもよろしく)。今は「うるま市」ですが、具志川に「昆布」という地名があります、その昔、日本本土から運んできた昆布を琉球経由で中国に輸出した港があったことに由来するそうですな。削除

2007/1/7(日) 午後 11:15chu*aum*y2 ]返信する

  

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昆布のとれない沖縄が全国一の消費量を誇ってますね。豚肉料理やクーブイリチーなどの料理にも欠かせません。具志川の「昆布」という地名にはそのような由来がありましたか・・復帰前には米軍の毒ガス輸送で名前がよく新聞に載っていた時期があったのを思い出しました。削除

2007/1/10(水) 午前 2:28anr**i2hi*o返信する

  

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pxは、今でも、あると思いますよ。・・・ライカム・・・って、レストランだったけ・・・??へええええ昆布の由来って、そんなとこから・・・昔、昆布の青年会長さんに・・・そんな名前って、ありえない!!と言い実際青年会館?までお邪魔した記憶が・・・^^懐かしいな。削除

2007/2/2(金) 午後 8:07xrg*m*04返信する

  

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昆布、そんな名前はありえない・・なんてことから始まった口論で、喧嘩になり頭を殴った。まさに昆布のせいでできたコブ。こぶれいを、ご無礼を。削除

2007/2/2(金) 午後 11:21anr**i2hi*o返信する

  

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具志川には昆布のほかに赤道という地名もありますね。(あかみち)と呼びます。削除

2007/2/3(土) 午前 7:45anr**i2hi*o返信する

  

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あははは^^うける~ポッチ!削除

2007/5/18(金) 午後 6:38xrg*m*04返信する