12月20日の午前1時を回る頃にねぐらを探してコザ十字路に差し掛かったバルサンは大きな自動車のブレーキ音を聞いた。それは軍雇用員の男性が米兵の運転する乗用車にはねられた音であった。バルサンはまさかその事故がコザ暴動事件という歴史にも残る事件の発端になるとは知るよしもなかった。
事故に駆けつけたMP(軍警察)は被害者を放置して、事故車を持ち去ろうとした。その事故に駆けつけ見守っていた群衆はいつの間にか千人ほどになっていて、「どうせ、また無罪なのか!」と怒りを顕わにしながら米軍の対応に非難を始めていた。
このコザ暴動事件に見られる米軍関係者による犯罪にはそれ以前からの目を覆う伏線が幾つもあった。1970年前後の外国人犯罪(ほぼアメリカ人)は年間千件の犯罪(殺人・強盗・婦女暴行等凶悪なものが多い)に登り、さらに米軍関係者による交通事故に到っては年間3千件にも達していた。
そしてこれら全ての犯罪、事故に関して、捜査権のない沖縄警察は無力で手をこまねくしかなく、MPによる処理(証拠隠滅)、非公開軍事裁判(上告ができない)といった過程を経て加害者の米兵は無罪あるいは軽罰に処理されてしまうのが常であった。
しかもコザ暴動事件のあった1970年の9月19日には沖縄本島南部にある糸満のロータリー付近で、米兵(軍曹)の酔っ払い運転により歩道を歩いていた女性(54歳)が圧殺されていた。地元の青年たちが中心になって、証拠隠滅の恐れのある事故車のMPへの引き渡しを拒否、さらにロープ・テントで監視体制をつくるなどの対策が取られた。
さらに事故対策協議会(地元青年団・人民党・社会党・教職員会など)を発足させ、警察を通じて米軍に厳重な公平なる事故捜査と司令官の謝罪・軍事裁判の公開・遺族への完全賠償を要求していた。だが、その裁判も非公開の軍事裁判で12/11「証拠不十分」により加害者には無罪判決が下りたのだった。
そういう状況の中でのコザでの新たな米兵による交通事故である。群集が怒りを顕わにするのも当然のことであった。米兵を取り囲む群衆が怒りを新たに暴動行為に走ったのは投石を恐れたMPが銃を空に向けて発射したからだということになっている。だが、ことの発端は空中から事件現場に近づいたバルサンを見て、異常にゴキブリ嫌いなシカーン・ヤナヒーラーというMPが思わず、バルサンに向けて銃を発射したからであった。
この事件がこれほど大きなものになるとはバルサンも予想だにしてなかったのである。
その発砲は事件現場を取り囲んでいた群衆の怒りに火を注いだ。その怒りの輪に挟まれたMPらはさらに銃を威嚇発砲しながら加害者ともども事件現場からの逃亡を図ったのであった。
つまりこのコザ暴動は計画的になされたものではなく、米軍の一方的な交通事故処理に対する怒りの発露であった。25年間のアメリカ軍統治による沖縄人の人権が蹂躙され続けてきたことに対する抗議の現れだっったといえよう。
事件の経緯は以下の通りである。
ピストルを発射しながら、MPは逃亡する。 →事故を起こした教務兵は袋だたきにされる。 MPカー・米軍トラック・黄ナンバーの乗用車を引きずり出し、次々と火をつける。 ※家屋に飛火しないよう、道路の中央に引きずり出してから、火を放っている。 家屋から略奪の被害届けは一件の報告もない。 →午前2時半、5千人を超えた群衆は、中之町交番・諸見交番にも、投石をはじめる。 胡屋十字路~普天間~北谷、ゲート通り~嘉手納第二ゲート、次々と米兵車輌に放火。 →米兵2百人(カービン銃武装)・機動隊百人で、ゲート付近に阻止線をはる。 群衆はなだれ込み、ガードボックス・米人学校などに放火。 米兵2百人に沖縄人ガード50人を加え、ゲートから押し出される。 機動隊5百人が増援され、MPと群衆の間にわって入る。 →午前4時半、各所に機動隊・米軍(ガスマスク姿)の阻止線、上空のヘリからも催涙ガスをまく。 →夜明け頃、群衆はどこともなく引き上げ始める。 黄ナンバー75台炎上、19人逮捕、警官5人・沖縄人十数人・米兵十数人が負傷(警察把握)。 1971年 1/8 騒乱罪適用。10人(バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人)を逮捕 →騒乱罪では起訴できず。
*シカーン・ヤナヒーラー 沖縄方言でシカーンは好かん、ヤナヒーラーは嫌なごきぶりの意味、もちろんジョークですよぉ。
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コメント(1)
産後まで、まってて~・・・・
2008/7/19(土) 午後 0:40返信する