トービーラーのバルサン物語(4)Yahooブログより転記

トービーラーのバルサン物語

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バルサンは普天間宮に立ち寄った後に少し海岸線を見たいと思い、
西海岸を走る1号線を越えて、伊佐浜へ行ってみた。

かつては「あれや牧湊これや砂辺村、越えて湾渡貝地残波岬まで
見渡しの広さ浦々の釣舟、いざり火のかげも目の前引き寄せて、
眺めてもあかね伊佐の浜辺」と詠まれた
白砂が遠浅の浜辺につづく美しい海岸だったらしい。


新作民謡の『十七八節』の一節では、「無蔵が待ち所 伊佐浜の碑文よ
無蔵が待ち兼ねてわ肝あまじ」と歌われるなど、
恋人たちの逢い引きの場所として登場する。

1800年代に橋が架けられた際に作られたという石碑のある周辺は
古くから部落の人々に親しまれ、美しい場所として知られていたようだ。

だが、戦後このあたりはライフルとブルドーザーと呼ばれる米軍の
強制土地収用で家屋を壊されて、強制立ち退きになったのだった。
土地を収用された人々の中には南米に移民した人たちも多いという。
1970年現在はこの歌に歌われた美しい場所も
見渡す限り鉄条網の金網に囲まれた米軍基地になっているのだった。

バルサンは海を眺めながら
「17、8ぐるや、夕間切どぅ待ちゅるよ~
夕ん暮りてぃ たぼり 我自由さびら ハラドンドンセー
約束 里前や 来ーんどぅあがやー」と口ずさんでみた。

バルサンは少し、その歌が歌われた頃の様子を想像しつつ、
再び、羽を広げるとコザ市目指して飛んだのだった。

[解説]

伊佐浜の土地闘争 現在、キャンプ端慶覧と呼ばれる米軍基地はかつては伊佐浜と
         呼ばれる沖縄でも美田を誇る農村地帯であった。
         1955年、その一体を基地に収用するため、一帯を米軍が取り囲み
         一夜にして家屋をブルドーザ-で破壊、住民を銃剣で追い払った。                      多くの人たちが後年、南米に移民していったという。

「17、8節」  新作民謡と言われる昭和30年代に作られた民謡である。
昔の若者には毛遊び(もうあしび)という若い男女の集まる語らい、歌う集まりがあった。

農作業を終え、若い男女が浜や広場に集まり、三線を弾き歌い、踊るという
一日の労働を終えた後の楽しみだったと思う。
当然、男女の恋愛も数多く生まれたものと思われる。

この歌はその恋愛感情を抱いた女性が彼氏と
伊佐浜の碑文の前で待ち合わせている情景を歌ったものである。
「17、8才頃は夕暮れになるのを待つものだ。さあ早く夜も暮れておくれ、
その後は私の自由にしたいから。ああ、気がはやるなぁ。
待ち合わせの約束をした彼氏が早く来ないものかしら・・」という意味である。

毛遊び(もうあしび) 毛は原や草の生えた小高い丘のことをいう。
           そこに三線を持ち出して歌ったり踊ったりした遊んだ。

コザ市  現在の沖縄市のこと。戦前は人口7千人ほどの越来(ごえく)村。農村。
     1945年4月、米軍は嘉手納に上陸し、字胡屋に野戦病院・物資集積所等建設。
     米兵が「コザ」と呼ぶようになる。日本唯一のカタカナの市であった。

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今でも、ターンムの畑が、少し??残っていますよ。今は、だいぶ都会化???してきてますね。うん。この前、車の中から撮影?しましたが、失敗・・今度、晴れたときにもう一度・・今度は車を止めてしたいな^^削除

2007/2/2(金) 午後 8:11xrg*m*04返信する

  

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伊佐浜は大山界隈の海端なんでしょうね。実際には行ったことないですが、やはり民謡の「17,8節」で一度はその歌碑を見てみたいといつも思っているんですが・・実際に沖縄に帰省してもいろいろ他のことで忙しくなかなか訪問できないでいます。写真撮れたらよろしくね。削除

2007/2/2(金) 午後 11:25anr**i2hi*o返信する

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バルサンは那覇から今度はA&Wを避けて、浦添ようどれのあたりを北上した。
ようどれとはゆうなぎを意味する言葉で、極楽を意味するお墓のことである。
これは琉球国の首都が首里に移る前に栄えたお城があった場所で、
ようどれは琉球王国中山王の玉陵(お墓)である。
バルサンがその上空を飛んだときにはやはり首里と同じように
瓦礫のようで整備がなされてなかった。

伊祖按司の居城である伊祖城跡もやはり整備がなされてなく、
これといって興味を引くものもないのでただ通り過ぎただけであった。

浦添を抜けると宜野湾市である。
バルサンが佐真下という地名の上空を飛んでいると何やら学校のようなものが見えた。
中に入って、教室をのぞくと見覚えのある少女の顔が熱心に授業を聞いていた。
バルサンはその顔をどこかで見たような気がした。

バルサンははたっと気がついた。
この少女はRBC(琉球放送)の日曜日のお昼に放映されている
オキコワンワンチャンネルという素人演芸番組のアシスタントではないか。
確か、内間明美(後の南沙織)といって、前原明子という那覇商業高校の
生徒と二人でアシスタントをしていたが、英語も堪能で人気も彼女が独り占めしていた。

彼女の通っている学校はキングスクールというアメリカンスクールであった。
彼女はヒデとロザンナがゲスト出演したときに彼らのマネージャーに見出され
東京で南沙織と言う名で「17才」というヒット曲を出すのもこの少し後であった。

バルサンはさらに普天間飛行場上空を横切り、普天間宮に飛んだのだった。

この普天間宮の裏には鍾乳洞があり、最初は琉球土着の神の信仰がなされていたが
いつしか熊野権現を招聘した神社になった。
どこの神社にも不思議な話が伝えられているもので
普天間宮には首里に住む絶世の美女伝説がある。

霊感の強い女性である日うたた寝しながら航海に出ていた父と兄の遭難の夢を見た。
彼女は手を差し伸べて兄を助け上げたのだが、父の方は手を離れて海に沈んでいった。
この夢は正夢で、兄は助かり帰ってきたが父は戻らぬ人となった。

彼女は人前に出ることを嫌い、家で機織をしていたのだが、
妹の夫が是非、その美しい顔を覗きたいということで妻に頼み
妻が自分の姉と話している隙に襖の陰から覗いたのだそうである。

それに気付いた女性は家を飛び出し、空を飛ぶように駈け去ると
普天間の洞窟に身を隠したのだそうである。

バルサンは伝説というのはあることないこと超常現象を面白おかしく伝えている
ものだと思ったが、はてさてゴキブリの自分がこのようなことを知っているのも
少し、おかしいではないかという気がしないでもなかったのだった。

[解説]

http://blogs.yahoo.co.jp/anragi2hiro/17962459.html 
に昔の(1963年頃)の普天間宮の写真について前に書きました。
参照してください。

現在の浦添ようどれも伊祖城址や安波茶の石畳なども復元、整備されているようです。
特に、浦添の変りようには目を見張るものがあります。

  

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観音堂でのお参りを無事済ませて、バルサンは首里に来たついでに
琉球王国のお城があったという首里上空界隈を飛行してみた。

観音堂を登っていくと首里高校がある。その裏門の道を隔てた場所に
琉球王の墓である玉陵(たまうどん)があった。

鉄の暴風と言われた激しい艦砲射撃で墓の一部を残して破壊されたまま
屋根の上ではお昼時ともなると高校生が弁当を食べていたりする。
戦後25年が過ぎていたがまだ修復の手は差し伸べられてなかった。

さらにゆるい坂を登ると首里城のあるあたりは琉球大学になっていた。
昔を偲ばせるものといえば、戦後再建された守礼門くらいである。
そのそばにあるのが園比屋武御たきと呼ばれている琉球国王が外出する際に
お祈りをする場所で、門のような形をしている。

その園比屋武うたきの裏側にはかつての日本軍の総司令部壕入り口が
ぽっかりと暗い口を開けていた。

かつての首里の古城を偲ばせるものはまだまだ修復されてなくて
戦争で失った物はかなりあり、沖縄の文化や精神の拠り所となるものを
復興するだけの余裕はまだまだないのだった。

バルサンはその後、観音堂に戻り、「上り口説」の歌に沿って
那覇の港まで行こうと思ったのだった。

一、旅の出で立ち観音堂千手観音 伏し拝で黄金酌とて立別る

二、袖に降る露おし払ひ大道松原 歩み行く行けば八幡崇元寺

この歌の通りだと、朝まだ露のある早い時間に観音堂にお参りをして
見送りの人たちともそこで別れたようである。
さらに、坂下、大道と徒歩で歩いているようだが、道の両側には
松の木が植わっていたようである。

崇元寺は奇跡の1マイルと呼ばれた国際通りに入る安里三叉路を泊方面に行く
途中にある1572年に創建された臨済宗のお寺でやはり戦争で破壊されたが
石門だけが50年代には修復されていて、当時の面影が偲ばれた。
観音堂からはわずか3kmほどの距離ではなかろうか。

三、美栄地高橋打渡て袖を連ねて 諸人の行くも帰るも中の橋

四、沖の側まで親子兄弟連れて別ゆる 旅衣袖と袖とに露涙

高橋は泊にある橋のことかと思われるが、現在は3面陸橋が掛かっている。
陸橋ごしに大きなビルの壁にグランドオリオンという国際通り近くにある
洋画の封切館の大きな看板が掛かっていてバルサンが通り過ぎる時には
「きんぽうげ」というカトリーヌ・ドヌーブ主演の映画の大写真が貼られていた。

その橋を渡り、西に行くと那覇の港である。
桟橋まで親子兄弟、あるいは親しい人たちは一緒に来たのかも知れない。
鹿児島までとはいえ、当時の船と航海技術では大変な旅だったのだろう。
お互いに涙を流しながら別れをしている。

五、船のとも綱とくどくと舟子勇みて 真布引けば風やまともに午未

六、又も廻り逢ふご縁とて招く扇や 三重城残波岬も後に見て

いよいよ出航の合図でもあったのだろう、船員が帆を威勢良く引き上げて
いよいよ帆に風を受けて出航である。午未とは北のことだろうか。

無事に戻って来てという縁起もあって、扇を振る人たちが
三重城(那覇の港の物見台があった場所)に集まっているのが見える。
那覇の港を出ると次の目印であろうか、もう残波岬を通り過ぎている。

あとは薩摩入港までの記述はない。

おりしもバルサンが那覇の港に着いた頃に、丁度「ひめゆり丸」が出航する所だった。
銅鑼がなり、船上の人と見送り人との間で赤や、青や緑のテープが投げ交わされて
鹿児島まで20時間ほど、東京の晴海までは40時間以上かかる船旅であった。

民間の那覇の港の向い側はアメリカ軍の那覇軍港になっていた。
緑色の戦車やジープが青い海を隔てて並んでいるのが目に映るのだった。
バルサンは那覇の振り出しに戻ってまた北の方角に向けて飛んだのだった。

[解説」
写真は上から園比屋武うたき
琉球国王歴代の墓、玉陵(たまうどん)
崇元寺

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戦前の首里城、見てみたかったです。 今回のバルサン記事、ものすごく沖縄を旅した気分になりました!削除

2006/12/11(月) 午後 11:51ドヤ返信する

  

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僕の父が生前、復元された首里城を見て、昔の首里城の方が大きかったと言ってました。多分、子供の頃に見た印象があるので、実際の建物が小さく見えたのだと思います。僕らは戦後、鉄の暴風が吹き荒れた後に生まれ、育ちました。復元とはいえ、目に見える形で当時の文化遺産があるということはとても大切なことだと思います。削除

2006/12/12(火) 午前 5:52anr**i2hi*o返信する

  

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おお~これ、・・うたきだったんだ~・・・へええ・・知らなんだ。なんか、そこら辺の、教科書よりおもろい・・^^削除

2006/12/19(火) 午後 7:08xrg*m*04返信する

  

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僕も高校時代はうたきだとは知らずに、屋根に登って琉大生と機動隊の攻防を眺めていたものです(苦笑)玉陵にものぼり屋根の上でやはり弁当を食べるのが日課でした。今なら、大問題になるよなぁ。削除

2006/12/20(水) 午前 1:24anr**i2hi*o返信する

  

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中学生の頃、放課後の帰り道、亀甲墓の前庭でバレーボールをよくしていました。スパイクするたびに、墓にボールが当っていましたが、今考えると、かなりバチ当りな行いでした。平身低頭・・・。削除

2006/12/20(水) 午前 8:47chu*aum*y2 ]返信する

  

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その後、Cyhuraumiy2さんのはかばかしくない噂が立ったのでした。でも亀甲墓はバレーボールくらいでは痛くも痒くもないほど頑丈にできているので、ボールだけに話は丸く収まりました。ウートートーアート-トー削除

2006/12/20(水) 午後 3:13anr**i2hi*o返信する

  

ちょ~お久しぶりです。
去年から、何かと忙しくブログを開くのが、難しくT0T
やっと、貰いに来れました。
来週から、また、短くても1ヶ月半ほどの産休に入ってしまいます。
ってことデ、後2つほど話しを貰っていこうと考えています。
産休前に、笑わせて、いただきま~す。
続きは、出勤してきてからのお楽しみで、取っておこうと^^削除

2008/7/19(土) 午後 0:27xrg*m*04返信する

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せっかく牧港までやってきたのにバルサンは南下して首里へ飛んだ。
外人住宅街での喧嘩や兵器を乗せて走る軍用トラックを目撃したせいか
バルサンは驚きの余り、マブイ(魂)を落としそうになったのだった。

その後、ラジオから沖縄古典音楽の「上り口説(ぬぶいくどぅち)」が
流れてきたのをきっかけにヤンバルまでの道中が無事であることを祈りに
首里にある観音堂に行こうと思い立ったのだった。

観音堂は万歳嶺(ばんざいれい)という首里の丘の西にあり
かつては首里八景の一つとして有名な眺めのいい場所にあった。
丘の上からは那覇市が見下ろせ、さらにエメラルドの海を挟んで
慶良間列島も沖合いには浮かび上がって見えるのだった。

慶良間や見ーてぃん 睫や見ーらん
(慶良間は見えてもまつげは見ることができない)
沖縄版のことわざ「灯台もと暮らし」はここの眺めから作られたに
違いないと、バルサンは思うのであった。

観音堂は1617年に国王の尚久王が4男の尚豊が薩摩に国の人質として
渡ったさいに、その道中の安全の祈願をして、無事その叶ったのを記念して
1618年に千手観音を招聘して御堂を建てたのが由来である。

その後、同じように薩摩に渡る琉球役人などが航路の安全を祈るようになった。

「上り口説」

一、旅の出で立ち観音堂千手観音 伏し拝で黄金酌とて立別る

二、袖に降る露おし払ひ大道松原 歩み行く行けば八幡崇元寺

三、美栄地高橋打渡て袖を連ねて 諸人の行くも帰るも中の橋

四、沖の側まで親子兄弟連れて別ゆる 旅衣袖と袖とに露涙

五、船のとも綱とくどくと舟子勇みて 真布引けば風やまともに午未

六、又も廻り逢ふご縁とて招く扇や 三重城残波岬も後に見て

七、伊平屋渡立つ波おし添えて道の島々 見渡せば七島渡中のなだやすく

八、もゆる煙や硫黄が島佐多の岬 はい並でぃエイ あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがう桜島

これが「上り口説」で、薩摩からの帰りの歌は「下り口説」というのがある。
面白いのは那覇の港から出発したわけだが、7番で沖縄を出ると8番ではもう薩摩に着いている。
昔のことだから、道中の詳細はあまりわからなかったせいかも知れない。
4~5kmもない首里から那覇の港までの道中が詳しく歌われている。

バルサンは観音堂にヤンバルまでの道中の安全を祈りながら思った。
手が千本もある観音様だ、俺は人間よりも手足が二本多いのは誇ってもいいかも知んない。
だが待てよ、それならムカデの方が手足は俺よりずっと多いということは・・・・

バルサンは頭が混乱してきていた・・だがとりあえずは
「上り口説」の道筋をたどって那覇の港まで行こうと思ったのだった。

[写真解説]
現在の観音堂の写真と
大正初期の観音堂方向から眺めた那覇市(坂下界隈)

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睫毛や見ーてぃん、慶良間や見ーらん(まつげは見えても慶良間は見えない)これは厚化粧の女性のことを指すーーーウチナーおじさん談削除

2006/12/8(金) 午前 10:26anr**i2hi*o返信する

  

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今回の、バルサンは、ヌブイドゥチ流れていて、ん~良い感じ。と思いきや、厚化粧・・・・分かる気がする。・・・・ぶわははは・・。 写真も、・・・へえええ貴重な、お勉強だわ・・・・削除

2006/12/9(土) 午後 1:57xrg*m*04返信する

  

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バルサンはゴキブリのくせにいろいろ歴史のある建物やら民謡、古典に興味があるみたいですね。トゥントゥンテントゥンと響く三線の音はいいです。削除

2006/12/10(日) 午前 10:18anr**i2hi*o返信する

  

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お久しぶりです。
今日は、お盆の中の日です。
ウークイの明日に備え、楽しんで、読み返して、帰りますね~。 ^^削除

2007/8/26(日) 午後 3:36xrg*m*04返信する

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バルサンは安波茶の新築中の民家からまたしても飛び立った。
しばらく北に行くと、見覚えのある光景が目についた。

A&Wのファーストフードの店である。
そこで脂ぎったハンバーガーやルートビアなどという薬草臭い飲み物を飲んだのだった。
・・ということはバルサンは北へ向かって飛んでいるつもりが安波茶などと
少し南に戻っていたわけである。

バルサンは思った。
沖縄のねぇーねぇのように浦添に住んでいる読者がいる。
適当なこともうっかり書けやしない。

さて、バルサンがまた牧港のちかくを飛んでいると
広場で子供たちが野球をしているのが見えた。
降りていって見ると、その少年たちはアメリカ人だった。

見渡すと、鉄筋コンクリートのアパートが建ち、
住民もアメリカ人のようであった。
特に金網で囲まれているわけではないので民間の外人住宅地域なのだろう。

しばらくするとそのアパートの中からアメリカ人の男が二人、怒鳴りながら
ドアを開けて出てきて、取っ組み合いの喧嘩になった。

一人の男がレスリングのようにもう一人の若い男の腕を取り、
地面にねじ伏せて取り押さえるような格好でしばらく口論が続いた。

その後、解放された男が何か叫びながら部屋の中に入っていった。
そしてすぐにその男は部屋から出てきたが、
バルサンはピストルでも持ってきたのかと少し不安になった。

だが、部屋から出てきた男は取り押さえた男の前にやってくると
握手を求めたのであった。

バルサンは何が起こったのかあっけにとられてその光景を眺めていた。
若い男は部屋の中にまた戻っていき、取り押さえた男の方も
2階の廊下に何が起こったのかを 見に出てきた女性に何か言うと
駐車していた車に乗って出かけて行ったのだった。

バルサンは呆然としていた。
一号線という大きな道路では大砲を乗せた軍用トラックや
戦車が我が物顔に走っているのを見たばかりであった。

少しタマシを脱がしたバルサンの頭の中に
ゆったりとした沖縄音階の音楽が聞こえてきた。
ふと我にかえって耳を澄ますと
それはラジオから流れる「上り口説(ヌブイクドゥチ)」という沖縄の古典音楽だった。

琉球王府の使いで薩摩に出かける役人の
その道中が無事であることを神に祈った歌であった。

バルサンは思った。
そうだ、この歌のように首里の観音堂に行って
旅の安全祈願をしてこよう・・
戦車が走っていたり、喧嘩があったり
これからの旅が思いやられる。

牧港から首里の観音堂まではまた南に戻ることになるが、
一直線でそう遠い距離ではなかった。

[解説]
牧港 浦添市の北にある地域。あくまで伝説だが、沖縄最初の王様、舜天王の父親は
   1156年の保元の乱で伊豆大島に流された源為朝とされている。がそこを脱して琉球に漂着、
   大里按司の娘、思乙と結婚、その息子が舜天王になったという伝説である。
   為朝だけ本土に戻り、その妻子が迎えを待っていた港(待つ港)が転じて牧港になったと
   言われている。

1号線 現在の国道58号線のこと。当時は日本全国でも屈指の4車線アスファルト道路で
    あった。緊急時の際は滑走路にもなると言われていた。

A&W 日本最初のファーストフードハンバーガー店。

観音堂 首里に向かう坂の途中を右に折れるとそこにあるのが観音堂である。
    千手観音が有名で、琉球王府の役人が薩摩に渡る際にも海路の安全を
    祈った場所である。

上り口説 沖縄古典音楽、ゆったりとした音階で旅の無事を歌った8番まである音楽。
     薩摩からの帰りは「下り口説」という歌がある。

タマシを脱がす またはマブイを落とすともいう。びっくりしたときに魂消るという
        表現があるが、沖縄では魂を落とすという。落とした魂はそれをまた
        体内に取り込む儀式(マブイグミ)をしなければ体に魂がないので
        ボーっとした状態になると言われている。
        マブイを落とした現場で泡盛、ゲーン(草の結んだもの)、
        お米などのマブイ込め3点セットもあるが、単に地面に手をつき
        「マブヤ-マブヤーウーティ来-ヨーヤ-」
        (魂さん、魂さん、ついて来てください)というだけでも可。

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おほほほ^^ がんばってますな~バルサン。へ~58って、滑走路も、想定内?すごいな。って、今はムリか・・ 今度、バルサンの足跡巡りツアー・・・考えとこ~っと^^ルートビアは、多分ですが、昔に比べて、甘甘ジュースになっていると、飲みやすいかな・・気がする。小さいときは、風邪薬だと言って、飲まされて、TOTた記憶がありますよ。おじさんは、マブイグミしたことある??削除

2006/12/5(火) 午後 4:22xrg*m*04返信する

  

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沖縄のねぇーねぇさん、 マブイグミは新たに記事にしてみましたよ。マジムン、キジムナーも機会があれば記事にしてみたいですね。削除

2006/12/6(水) 午前 5:56anr**i2hi*o返信する

  

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今週も、貰っていきますね~^^週明けに、読み返すのを楽しみにして・・・ガマンガマン・・もってかえりま~す削除

2007/5/25(金) 午後 7:23xrg*m*04返信する

  

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沖縄のネェネェさん
そろそろバルサンを飛ばさんとならんねぇ。コザに行ったら、コザ暴動にあって、たましぬがして飛べなくなっているさぁ。削除

2007/5/26(土) 午後 2:15anr**i2hi*o返信する