タイ・インド・ネパール旅日記(11)Yahooブログより転記

タイ・インド・ネパール

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2007年12月24日22:27 4月4日の続き 
  
 夕方になってホテルの外から賑やかな音楽が聞こえたので窓を開けると、暗くなりかけた大通りをこちらに向かってパレードがやって来るのが見えた。 

 結婚式のパレードらしく、中心には花嫁を囲んで若い女性のグループが左側から、男性は右側から別々にホテルの門に入って来る様子であった。 

 急いでホテル正面口の反対側にある披露宴会場の入口に降りていくと、化粧を施され、着飾った5頭の象が門番のように並んで外に立っていた。好奇心にかられホテルの中に入り結婚式会場の入口ドアから顔を差し入れて覗くと、近くにいた老人に中に招き入れられる。 

 それはシーク教徒の結婚式であった。披露宴の中央にステージがあって、着飾った若い女性たちがその上で踊っていた。立食パーティのようなこのような祝宴が一週間ほど、毎晩にわたって続くのだと老人は説明してくれた。  

 結婚披露宴を部外者が邪魔しても悪いので一通りの説明を聞くとその会場を後にした。部屋に戻る前にロビーに立ち寄ると、そこにはかなりの日本人が居た。その中の一人に挨拶して話を聞くと50人程の日本人が集まるデリーの日本人会の総会がこれから行われるのだそうだ。日本の企業の駐在員などがやはりニューデリーには住んでいるのだった。 

 いよいよインドを去る時が来た。成田を発ってはや一ヵ月が過ぎたのだった。バンコックを経由してあさってには家に戻っている予定である。 

振り返ってみると、ひと月といえど短いように感じる。そしてまた、夕もやの中を藁を高く積み上げて道端を歩いている牛車を車の中から見かけたのはずっと遠い日の夢のような気もする。その情景には現在と遠い過去が入り乱れたような錯覚を覚えたものだ。いや、いやまだまだ振り返るには何といっても早すぎる。 

 ただインドという国は僕には他の惑星を旅したような、あるいはタイムマシンに乗って、遠い昔に行ってきたような実体のない物にも思える。それだけ、僕にはとらえきれない国だということだろう。 
  
 深夜1時20分、ニューデリー空港を離陸。5時半(バンコック7時)バンコックに到着する。

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○ハラ 2007年12月24日 23:09 あんらぎさん、 
私がインドに対して思い入れが全く無いのはこういう出発時間にも原因があると思います。 

あんらぎさんのは、1時20分でしたか、私のは明け方5時頃でした。 
ホテルに2時頃まで居て、空港に行きましたがカウンターは開いて居なかったと思います。 
で、カウンターが開くのを待って手続きをし、ゲートへ行って飛行機を待って、飛行機に何とか乗り込み、と詳細は覚えていません。 
眠いばかりで、ただただ飛行機に乗り遅れないようにと、睡魔との戦いでした。 

良い人も居たのでしょうが、たまたま巡り会えなかったようで、もう来なくてもインド、と、安心したのを覚えています。 あんらぎ 2007年12月24日 23:41 ○ハラさん 
空港にはホテルの車で送ってもらいました。帰りはデリーで安いがかさばるカバー類などを買ったりしたので結構荷物も大きくなってました。 

インド最後の日にインドの裕福層の1週間も宴が続くという豪華結婚式や5頭の象の門番?なども見られていい印象で帰国できたのは幸いでした。 

この旅の手続き一切は家内がしてくれたのと、僕は出発間際まで仕事があってインドに関するガイドブックさえ読んでなかったのでぶっつけ本番でインドと対峙した感がありますね。それだけ予備知識がない分、お気楽で新鮮な驚きに満ちた旅だったともいえます。 

このインド日記はPCを購入して教則本かわりにタイピングしたのですが、インド日記だけにブラインドタッチができるようになるかと思ったのですが、相変わらずキーボードを見ながらタイプを打っています。

  

2007年12月24日04:11 4月4日の続き 
  
 今日がインド最後の日である。邪魔になるので控えていた買い物をする目的で官庁街のコノートプレイスへ行く。先月、品定めをした露店の集まっている通りでインド装飾の施されたベッドカバーやクッションのカバーなどを買う。 

 東京のパキスタン人の友人に頼まれた銀メッキのティーセットを2組買う。さらにそれらを詰め込むためのやはりインド装飾の施された布製のバッグも買う。 

 ウィンピー(ハンバーガー屋)でベジバーガーを食べた後、オート三輪車でニューデリー駅前のメインマーケットへ行く。小物類を見て廻った後タクシーでホテルへ戻る。 

 ホテルへ着くとホテルのドアマンがタクシーのドアを開けてくれた。その後僕らが降りてドアマンがタクシーのドアをパシャンと閉めるとタクシーのドアの取っ手が大きな音をたててコンクリートの道に転げ落ちた。 

 ドアマンも何気なく摘み上げたドアの取ってを運転手に窓越しに渡していた。タクシーの運転手もこれも何事もなかったようにごく自然に受け取っていた。その間、彼らの間には何らの会話もなかった。 

 その光景がまるでチャップリンやキートンの無声映画の一場面をみているようでロビーに入るまで笑いをかみ殺していた僕らもたまらずに笑いが堰を切るようにこみあげてきた。 

 インドのタクシーはほとんどがインド唯一の国産車であるアンバサダーという車だが、恐ろしいほどコンディッションが悪い。ミラーの付いてないタクシーもざらに走っている。後部座席のドアの上の手で体を支える取っ手を掴んだらその取ってが取れたこともあった。 

 そのような車で牛や、オート三輪車、三輪自転車などのごったがえす市内を縦横無尽に走るのだから、ある意味ではインドの運転手はかなりのテクニシャンであるとも言えるかも知れない。さらにボンベイ(現ムンバイ)で夜乗ったタクシーはライトをつけずに走っていたから、暗い所でも目の見えるふくろうや猫のような目の持ち主でなければ勤まらないだろう。 

 ファルークの運転するアンバサダー車もかなり古い車には違いなかったが、手入れはもの凄く行き届いていた。ラジエーターに水を入れる際に覗いたエンジンルームはオイルの汚れも、ごみ一つついてないいかにも毎日手入れ、磨き上げているようなきれいさであった。 


ある意味、車の老化現象でミラーが落ちたり、ドアの取ってが剥がれ落ちたりするまで大切に使っているということが言えるのかも知れない。

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○ハラ 2007年12月24日 08:07 あんらぎさん、 
ルーマニアに行った時、始めてドアの無いトラックが公道を走っているのを見ました。 

日本ならもちろん不整備車両ですぐ捕まるでしょうが、ルーマニアでは公道を走っていましたから不整備車両にならないんでしょうか。 
ルーマニアの国産自動車は「ダチア」と言う車ですが、これはベンツかどこかから技術を貰って作った車でしたが、これに乗せて貰って観光に行く時、たまたま信号で止まって、横を見たらトラックのドアが無いので運転手が座っている全容が見えて、不思議な気分になりました。 

また、アメリカでも田舎の方に行くと冬に撒く塩のせいでしょうか、ボディーが錆びている車が走っており、これも文明国アメリカと思って居た私には、ショックでした。 

英語の本を読んでいて「beaten up pick up truck」と言う文章を見て、言い得て妙、と思いました。 
「beaten up」が、ボコボコにされた、とか、こてんぱんにやられた、みたいな意味に思ったので、あの田舎のオンボロトラックに、ピッタリの文章だなあ、と思いました。 あんらぎ 2007年12月24日 10:03 ○ハラさん 
Youtubeで「ウエスト再度物語」を再度見ていたら、出だしのシーンでジェット団だったかが、対立するグループにBeat it!(失せろ)と言ってました。 

beat up叩く、叩きのめす、で確かにボコボコ車、ポンコツ車のイメージそのままですね。 

そういえば、アメリカは車検制度がないみたいですね。みたいというのは車検に出した覚えがないから言っているわけですが、あるのかなぁ。通知も貰わないし、多分ないのでしょうね。 

ということはかなりポンコツでも走っている可能性はありますね。 
きょうはスーパーの駐車場に1931年製のポンコツ車(クラシックカー)が来てました。これはユニークだったので後ほど写真をUPしたいと思います。

  

2007年12月21日22:38   4月3日(日) 

 タメルバザーで買ったタンカ(曼荼羅宗教画)を厳重梱包して店の者が二人で届けてくれた。彼等は同じ親から生まれた実の兄弟だというのだが見た目は一人はインド系の浅黒い顔つきをしている。そしてもう一方は少し彫りは深いが、こちらはどちらかというと仏像の顔にそっくりのモンゴロイド系の容貌である。  

 もっとも東京の知り合いのパキスタン人で色の白い金髪の女の子が産まれてびっくりしたというのがいるが両親はどうみても色の浅黒いインド系の容貌である。そのはるか昔アレキサンダー大王がインド遠征の際にギリシャ人の兵士と地元の女性たちとの集団見合いをさせたという記録があるらしいから、そのときに人種が混血した際の先祖返りというのか、人種の交流の激しかった地域では、ままある現象なのかも知れない。 

 ニューデリーへのフライトは4時20分なので、ホテルの車で11時半にバクタプアーへ行く。インドでは乗用車はほとんどアンバサダーという古い型の車だけであったが、カトマンズ市内を走っている車はトヨタはもとより、ベンツ、BMWなどとバラエティーに富んでいる。  

 バクタプアーは煉瓦造りの町並がきれいな古都で、宮殿はもとより、日本の五重の塔にそっくりの塔があった。祭りの準備中らしく大きな山車なども広場には置いてあって、人々の顔つきにしても日本に居るような錯覚をおぼえてしまう。もっとも、昔「初めてでも懐かしい」という旅行CMがあったが、日本といっても明治、大正期あたりはそうだったかも知れないという妙な懐かしさなのである。  

 そこに一時間ほど居て、荷物を取りにホテルへ戻り、すぐに空港に行く。飛行機の窓から、ヒマラヤが見えた。雲を突き抜けて、白い雪に覆われた峰が光り輝いていた。もっともそれがヒマラヤかどうか定かではない。まさか富士山ではあるまいからとりあえずヒマラヤを見たことにしておこうと思う。 
  
 6時、ニューデリー着。税関で長い筒に入って梱包されたタンカをバズーカ砲かと冗談で聞かれる。そうだと答えて受けたかったが、別室に連れられていくのもかなわないので黙って苦笑いする。確かに、そのくらいの大きさはあるかも知れない。 
  
 インドの旅を始めたニューデリーのタージホテルへチェックイン、3月7日以来である。8階にある部屋の窓の外にはバスケットボール大の蜂の巣がぶら下がっていて、無数の蜂が窓ガラスにまでへばりついている。これだけの大きさだ、ホテル側が気付かぬ筈がない。 

ジャイナ教といって、歩くときにも蟻一匹踏み殺さぬよう気づかう宗教のある国だ。窓さえ開けなければ平気なのだから、ほっといているのだろう。インド国内を回ってきた後ではそのことも何となくわかるような気がする。 




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○ハラ 2007年12月22日 02:47 あんらぎさん、 
そう言えば私がアメリカから一番最初にカナダに行った時、たまたま旅行鞄の中に、黄色いエンパイア・チューブが入っていて、税関のカナダ人のオジサンから「お前、これで麻薬を吸うのだろう」と言われました。 

エンパイア・チューブとは黄色い色の管で、本当は電線の絶縁被覆に使う物で、直径はいろいろあるのですが、その時の物は5ミリくらいの物でした。 

確かに形がジュースなどを飲む時のストローと同じなので、吸う事も出来そうな感じですが、実際にはスカスカで小穴が空いているので吸えません。 

しかし何を思ったかオジサンがそう言うので、一瞬何を言われたか分からず「は?」となってしまいました。 

そこで、アメリカ国内では機械修理の仕事をしている事、カナダには観光で来た事、を私の中学校英語で説明し、仕事で使ったチューブの余りがたまたま入っていた事、を説明して何とか解放して貰えました。 

表で早々と税関を抜けていたアメリカ人に「お前、随分遅かったな。税関をとっくに抜けてどこかへ行ったかと思っていたよ」と言われました。 

私もあんなチューブでまさか「麻薬を吸っているだろう」などと言われるとは思いも寄りませんでした。 
あそこでジョークで「はあ、やっぱり分かるかね」などと言おう物なら、別室までドラッグされた事でしょうね。 あんらぎ 2007年12月22日 09:46 ○ハラさん 
2005年、日本から戻るときに飛行機の中に日本留学を終えてアメリカに帰るという黒人男性がい税関で僕らの前に並んでいて、税関のやはり黒人スタッフに日本に留学して戻ってきたといっていました。 

するとその黒人スタッフがその黒人に「どれくらい留学していたのか?」とか「どこの大学に行ったのか?」と流暢ではないにしても日本語で問い掛けていました。 

その人は横須賀か横田に2~3年いたことがあると言っていましたね。 

また別のときは僕の名前を見てアルファベット表記で音が同じになる苗字は日本に多いのですが、自分の義父の姓と同じだと言ってました。日本人女性と結婚した方だったんですね。 

シカゴ空港で乗り換えの際はいったん荷物をすべて請け出して乗り換え時にまたセキュリティチェックを通るのですが、何か食べ物は持ってないかと聞かれたので、ライスボールを持っていると答えたら、大きな声でX線の向こうにいるスタッフに「おにぎりぃ~」と叫んで伝えてました。

  

カトマンズ④

2007年12月20日19:46   4月2日(土)の続き 

 その後近くの王宮博物館を見学する。6~7階ほどの高さの塔があって、そこからカトマンズ市内が眺められた。時にエベレストが望めるらしいのだが、あいにくこの時期はめったに見えないとのことで残念だった。 

 2時からホテルで見つけたエベレスト旅行社のツアーに参加する。同行者はボンベイから来た新婚の若いインド人カップルに、デリーから来た同じくインド人の中年カップル、ガイドは白人のようなネパール人の男性にインド系の顔つきの20才ちょっとの運転手といったミニバンでのツアーであった。 

 最初に境内に猿が放し飼いされているので通称モンキーテンプルと呼ばれているところへ行く。ホテルの僕らの部屋から見えた巨大な目玉の塔の在る丘の上にあった。小高い丘からは市内が良く見渡せた。本堂では10才前後のチベットから逃れて来たという修行中の少年僧が一斉に読経をあげていた。日本人のような顔つきの坊主頭で昔の日本の少年のような無邪気さと可愛さがある。中には読経の途中でちらちら落ち着かずによそ見するのがいてなんとも愛嬌がある。 

 その後、ツアーのお約束というべき土産店に連れて行かれる。ボンベイからきたカップルは新婚ということもあろうが、インド人には珍しくいちゃついてばかりいる。それを抜きにしても男性はどことなくいけすかない野郎である。中年カップルはインドの裕福層らしく、前に来たときは何を買っただの、何がどうだのと話している。 

 店へ入らずに一人で表で煙草を吸っていると、運転手の若者がやってきて話しかけてきた。にこにこ愛敬よく笑いながら、日本人なのかとか、買い物には興味がないのかと言いながら古くさいプレイボーイジョークを話してくれた。 

 「幸せな男性とはアメリカ式の家に住み、日本人の妻を娶り、中国人のコックを雇って、イタリア娘を愛人に持つことである」というジョークであった。このジョークはお国柄で多少変化するようだが、日本人の妻という部分はなぜかどこの国でも共通しているようである。世の男性は大人しく従順で家庭を切り盛りする大和撫子というイメージを日本人女性に抱いているらしい。 

 その後、パトナー市にあるゴールデンテンプルという小さいながらも金色に飾りたてられた、豪華絢爛たる仏教寺院を見物して、それぞれのホテルに送ってもらいツアーは終了した。 

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小高い丘のタワー 2007年12月20日 23:12 若い頃ジャンポールベルモンド主演の映画「カトマンズの男」を見ましたが、けっこう印象に残っていてカトマンズという言葉を聞くたびにまた映画を観てみたいと思います。 
映画自体はドタバタ冒険劇でたわいのないものなのですが、カトマンズの風景がエキゾチックで興味をそそりました。 
西洋人が東洋をみるとこういうアングルから見るんだと当時思ったりしました。 
ただ得てしてその手の情景、雰囲気は映像のマジックである場合も多く、なんとも言えませんが、、。 
当地に行かれたあんらぎさんにはうらやましいかぎりです。 ○ハラ 2007年12月21日 01:50 あんらぎさん、 
日本人は侍と大和撫子で、アメリカ人はカウボーイとマリリン・モンロー、のように一括りには出来ませんね。 

以前テレビでやっていましたが、アメリカのオレゴン州ポートランドへホーム・ステイに行った日本人の高校生の男の子が、毎晩日本へ電話をかけるので、ホーム・ステイ先のアメリカ人の奥さんが、「必要以外に電話をかけてはダメ!」と制限したら、この男の子が「どうしていけないの? お金なら払うよ」と反論してました。 
奥さんは、郷にいれば郷に従え、アメリカに居るのだからアメリカ式で、を教えようとしたのですが、このイカれた高校生には始めは分からなかったようです。 
最後にはすすんで皿洗いまでやってましたが、お坊ちゃんですね。 

また、別の番組で、日本の家庭がアメリカ人女子高校生のホーム・ステイを受け入れる事を決め、女の子と言う事とアメリカ人と言う事で、部屋割りとか食事は洋食の何にしようか、迷っていて、おばちゃんまで英語の特訓を始める始末。 
ところが、やって来た金髪の高校生は、きちんと正座をして、よろしくお願いします、と日本語で言い、味噌汁でも豆腐でも、ちゃんと箸で食べていました。 

結局、侍や大和撫子にするのも、カウボーイやマリリン・モンローにするのも、親の育て方ですよね。 あんらぎ 2007年12月21日 07:08 小高い丘のタワーさん 
「カトマンズの男」懐かしい映画ですね。実は僕は見てないのですが、公開時期などは覚えています。実際にカトマンズに行った時もこの映画の題名が思い浮かびました。 

カトマンズ市内は高い建物はあまり見かけなかったですが、近代的な平や2階建てのコンクリートブロック製の建物が目につきました。道路を走る車もインドと違って様々な車が走っていました。その割と広い道路をいざり(今は差別語になっているかも知れませんが・・)が自家製の箱に車輪をつけたのに乗り、手にはサンダルを持ってそれで地面を蹴ってかなりのスピードで僕らの乗る観光用バンの前を横切って行ったのが印象に残っています。 

正直、町並みはほとんど記憶の底に沈んでしまったようであまり思い浮かびません。 

インドのウダイプアーには「007」の映画に使われた湖の真ん中の島に浮かぶもとマハラジャの別荘で現在ホテルになっている場所がロケに使われた所にはいきましたが、映画のイメージとは多少違うような気がしました。 

映画は場面をつなぎあわせるマジックがありますから、やはり実際の場所とは若干イメージが違ってくるのかも知れませんね。 あんらぎ 2007年12月21日 07:18 ○ハラさん 
人間は他国の文化や習俗、あるいは人間さえもステレオタイプの観念で一括りにして見てしまう傾向があるのは確かですね。 

アメリカはフリーセックスの波を受けているという観念がありますが、西部の宗教ベルトと言われている地区の性に関する観念は今の日本の女子高生なんかより真面目で貞淑な若い女性が多いような気がしました。 

確かに一般にいわれているイメージで物事を眺めるのはまり考えなくてもすむので楽なのは楽で便利でもありますし、それにそれも一概には当たらずとも遠からじの面もあるしで、物事を眺めたり判断するのに役立つ部分はおおいにあるのでしょうが、すべてがその一面的な考えでまとめることなんかできないのは当然ですね。 

そういえば僕も歌舞伎なんか見たことがなかったし、相撲や能も見たことがなかったですが、とりあえず一度は見てみたのも家内のすすめで行ったのでした。 

外国人も今や日本が単に富士山、芸者だけではないことをとっくに理解しているようですが、それにMANGA,アニメ、テクノロジー、ロボットなどが加わった程度で実際に日本を知っている人はまだ少ないかも知れないです。 

大和撫子のイメージも実際の現代日本女性を知ったらやはりそのイメージも変更するかも知れないですね。

  

カトマンズ③

2007年12月19日19:39   4月2日(土) 

 ネパールでは土曜日が休日だそうだ。午前中はロイヤル宮殿を見物に行く。宮殿前の広場ではフリーマーケット風に古董品や宗教儀式で使うような道具が売られていた。 

 とりあえず、その界隈を歩き廻り、クマリ寺という木造の建物の中に入る。2階建ての家が、狭い中庭を取り囲むようになっていて寺というより昔ながらの古い住居のような感じだった。 

 突然、あっという旅行者の歓声につられて二階を見上げると、4~6才位の目の周りを隈取りして、赤い口紅を引いた幼い女の子が窓から顔を出していた。緊張しているのか生真面目そうに口元をきっと噛み締め愛想を振りまくでもなく、数十秒ほどみじろぎもせずに窓際に立った後、お付きの女性が窓を閉めて顔見世は終了した。 

 後で知るところによれば、それがクマリ寺の生き神様で4~6才頃から、初潮を迎える年頃になるまで特別の宗教儀式以外はこの建物から出ることも許されずに生活しているのだそうだ。 

 日に何度か、参詣者が顔を拝めるように窓際に立つらしく、僕らはそれをまったく知らずに実にタイミング良くその顔見世に遭遇したのだった。ただ、まじかに見た生き神様は見るからにいたいけな小さな女の子であった。 

*クマリ寺 隈取黒目 口に紅 
生き神様は 幼き少女 

*幼子の クマリ顔にて おわすなり 
クマリ寺なる 生き神様は

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○ハラ 2007年12月19日 20:38 あんらぎさん、 
少女が生き神様というのはあまり聞きませんね。 

巫女としてなら、沖縄や日本の歴史でも聞いた事がある気はしますが、これも神様では無くあくまで神と交信できる能力者ですよね。 

ダライ・ラマは男性ですし、他の地域でも大体少年です。 
考えてみれば、日本の天照皇大神は女性ですから女性の神様が居ても不思議はないと言えばありません。 

「元始、女性は太陽であった」平塚雷鳥さんは見事にこの事を言い当てていたのかも知れません。 あんらぎ 2007年12月20日 11:19 ○ハラさん 
どういう意義付けがあるかわからないのですが、信仰のシンボルにでもなっているのでしょうかね?宗教儀式にそういう小さな女の子を祭り上げることで何か花を添えるという意味合いとかもあるかも知れないですね。 

チベットではダライ・ラマの生まれ変わりを探すらしいですね。宗教の神秘性と求心力を高めるのに役立っているかも知れないです。 

平塚雷鳥さんは女性はティーダ(太陽)だったとおっしゃったんですか。その生き神さまが雷鳥、いや来朝していたら太陽、いや大層喜んだことでしょう