タイ・インド・ネパール旅日記(10)Yahooブログより転記

タイ・インド・ネパール

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2007年12月17日20:38   4月1日(金)の続き 

 通りにある美術商、古董店などをひやかして歩いていると、いきなり電気がついて店員がランプを片付け始めた。何でも節電のために週に一度、夜7時半にならないと電気が来ないのだそうだ。 

 これまでの暗い中にランプの光がゆらめく神秘的な通りが急に明るくなり、観光客目当てのバーのネオンなども眩しく輝き始めている。だがいきなり、現実世界に引き戻されたようで多少、興ざめであった。 

 蔓陀羅の描かれたタンカを扱う店を3軒ほどまわる。いずれもそれぞれ絵を描く職人をかかえていて、中には職人が絵を描いて実演している店もあった。 

 その中の一つで割合多くのタンカを展示している店で、長さ150センチ、幅75センチ程のタンカを安くして貰い400ドルで購入する。黒地に落ち着いた金色を基調にして、茶、淡青、淡桃色などを使い、細かい手作業で無数の仏の姿が描かれている。それぞれの図柄に物語があり、仏教の宇宙観を表わしているのだそうだ。 

 この店はロンドンにも支店があり、僕らの手にしたものはロンドンでは3~4倍の値段で売られているとの店員の説明があったが、むろん単なるセールストークなのかも知れない。 

 それより、この旅の目的の一つは仏教史跡を訪ね、タンカを手に入れるという家内の長年の夢を果たすことであり、今この瞬間、目的がかなった訳である。宗教意識の薄い門外漢のぼくでさえ、ある種の達成感は感じている。選んで購入したタンカはちゃんと形が崩れないように梱包して後日ホテルに届けてくれることになった。 

(ここで余計だが、せっかくなので恒例の駄じゃれ短歌を付け加えようと思う) 

*タンカ買う ネパール客に 勝トマンズ 
チベットだけよと 安くなりけり 

*啖呵切る どうかしタンカ この単価 
安くしたんか 我は知らざる 

でも値段交渉で喧嘩腰からほんとの喧嘩になってはいけません。 

*啖呵切り 喧嘩の末に 救急車 
担架に乗った アホもいタンカ

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○ハラ 2007年12月18日 00:15 あんらぎさん、 
タンカって何ですか? 
急病人を運ぶ、あの担架ですか? 

曼荼羅が描かれたタンカとはどういう物か、想像がつきません。 

あんらぎさん、形崩さず、ホテルまで、運ぶタンカは、何だっタンカ 

字余り、ご容赦。 あんらぎ 2007年12月18日 01:24 ○ハラさん 

http://www.artnavi.ne.jp/representation/gazai/c-1-2.htm 
http://www.artnavi.ne.jp/representation/gazai/c-1-2-1.htm 
のサイトをご参照ください。 

昔はよく駅のホームの片隅に白いホーロー製の容器がありましたね。 
上京当初は何を入れる物だっタンカわからなかったんですが、後で何だ痰かと判明しました。痰壺だったです。さすがに今は見かけないでしょうね。 

他にも担架、啖呵、単価、丹花、炭化、単科、炭価といろいろありますが、僕らがカトマンズで買ったのは仏を布に描いた曼荼羅の宗教画のことです。現物が部屋の壁に掛かってますので後ほど写真に撮ってご紹介したいと思います。 ○ハラ 2007年12月18日 02:13 あんらぎさん、 
ははあ、宗教画の事だったんですか。 

そう言えば、ルーマニアで、ネコちゃんが、「イコン(これも宗教画、英語読みならアイコンですかね)は売買禁止、国外へ持ち出し禁止で、見つかったら没収されるんだ」と言ってましたが、そう言う性格の物なんですね。 

あんらぎさんのは合法なのに比べ、当時共産国のルーマニアのイコンは見るだけ、だったようです。 
もっとも、買って持って出て良い、と言われてもルーマニアの宗教画は要りませんし、遺恨を残したくもありません。 

カントリー歌手のドリー・パートンがやはり仏像だかを買って旦那とモメた、と言う事が自叙伝に書いてありました。 
白人は東洋の神秘的な物に憧れるんでしょうか。 

鄧小平だったか毛沢東だったかがやはり喋りながら痰壺を傍に置いていて、ペッ、ペッとやりながら会議している映像を見た事があります。 
日本人の神経だと「汚い」と思いますが、中国人の神経だと「便利で良いじゃないか」となるのでしょうか。 
ただ、議論に結構熱中していた感じで、痰々(淡々)と話しては居なかったように思います。 あんらぎ 2007年12月18日 08:41 ○ハラさん 
ちょっと昔・・のような気がしますが日本人も道を歩いていて突然、カーぺっと唾や痰を吐き出すおじさんはいたものです。電信柱の片隅で用を足すおっさんとか。 

沖縄ではくしゃみをすると「クスケー」というおまじないを唱えます。これは「糞ッ喰らえ!」ということでくしゃみをした瞬間に油断した体内に悪魔が入らないようにとうことらしいです。 

東京ではやはりおじさんがくしゃみをした後に「へっくしょん、てゃんでぇこんちくしょうめ!」というのを聞いたことがあります。似たようなおまじないなんでしょうね。 

それがアメリカでは「ブレス・ユー」と言いますね。やはりこれもクシャミをして油断した隙に悪魔が体内に入らないおまじないのようで、"God bless you"の意味合いがあるみたいです。くしゃみ一つで大げさといえば大げさ。 

ボストンの地下鉄に乗っているとき、家内がくしゃみをしたところ向かい合わせの本を読んでいた青年が「ブレス・ユー」と言いました。間を置かず、僕もくしゃみをしたところやはり「ブレス・ユー」と言ってくれました。 

しばらくして隣のおばさんがくしゃみをするとやはりこの青年は顔をあげてちょと迷惑そうな顔をしながら「ブレス・ユー」と言ってましたが、さすがにその後立ち上がってどこかに移っていきました。 

神の祝福を人に伝えるのもやはり疲れるもののようです。

  

2007年12月16日15:35   4月1日(金) 

 朝6時45分、ルンビニの法華ホテルをミニバンタイプの車で出発する。フロントのネパール人女性二人と浅草に本社のある海外事業部長の八木さんが表に出て見送ってくれた。割と大きいホテルなのに、シーズンオフなのか僕らの他に宿泊しているのはアメリカ人の母娘と遺跡の修復工事で来ている長期滞在中の日本人が一人いるだけだと聞いた。 

 車には運転手の他に別の男性が一緒について来た。多分帰りの運転をするのだろう。彼らとも言葉が通じないので確かめようがなかった。車は山あいの道を幾つかの村々を走り抜けながら進んでいった。確かにカトマンズの代理店が電話で言っていたように途中で二箇所ほどの崖崩れ現場にも出くわした。スピードを落とし石を避けながらゆっくりと用心しいしい通り抜けた。すでに全体がかなりの高地のせいなのか、高い山は意外と見かけない。 

 カトマンズ市内近くに検問所がありそこの事務所の中に入れられて書類のチェックがあった。ルンビニから休憩も含めて、約8時間かかって午後3時にカトマンズのオベロン・ホテルに到着する。 

 割り当てられたのは運が良ければヒマラヤが望める部屋だということだが、フロントによればこの時期は視界が悪くてめったに見えないらしい。だが、近くの丘の上に寺院があって、塔の中央付近に巨大な目が描かれているのが眺められて印象的である。 

 少し休んで日も暮れた7時頃に市内のタメルバザーへ出かける。タクシーを降りた商店街は電気がひいてないのか通りも店の中も暗い。店の中ではそれぞれランプやガス灯のようなものを使って灯りにしている。 

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クラウン ジョージ 2007年12月16日 17:06 塔の上の巨大な目 が気になる。どんだけ~ (ジョーク)。 
ヒマラヤ 見たいナー テレビでしか見れない。 ○ハラ 2007年12月16日 18:10 あんらぎさん、 
富士山だって、よく見えない事の方が多い気がします。 
私は新幹線で見えるか見えないかを判断しているのですが、出張で傍を通るのに、全体がスッキリ見えた事は数少ない気がします。 

上だけとか下だけとか、部分的には見えますが、全体となるとなかなか見た気がしません。 

何回か富士山のすぐ傍の工場に行きましたが、そこからたまたま全体が見えた時、工場の人が「どうだ、綺麗だろう」と言ったのへ「松竹映画の始めみたいですね」と言ってしまい、ちょっと素っ気無かったかな、と思ってしまいました。 

近くに実際に行くより、映画館へ行った方がよく見える、と変に感心してしまった○ハラでした。 あんらぎ 2007年12月16日 23:53 ジョージさん 
ジョーク ジョーグ(大好き)の僕もこのギャグは活字ではイッコとかいうおかまの美容師が流行らせたらしいと承知してますが、日本に住んでないのでどんなシチュエーションで使うのかよくわかりません(笑) 

どんだけ~と大きさを訊ねているなら、かなり巨大な片目です。どうもチベット仏教のシンボルみたいな気がします。塔の真ん中に描かれていて遠くからも目だちます。 

ヒマラヤは後で帰りの飛行機の中から雲の合間にわずかに見ることができました。 あんらぎ 2007年12月17日 00:02 東京にも富士見が丘とか、富士見台とかいう地名があって富士山が遠めによく眺められるところがあります。視界のいい天気の日には確かに東京からもよく見られる日がありました。 

僕が上京した頃は公害、光化学スモッグとかの大気汚染がひどかったのですが、長い事生活している間に都心へのトラック乗り入れ時間帯制限とか、車のガス排出基準が厳しくなるとか、工場からの煙突からの煙が目立たなくなったとかで割りと天気のいい日には眺められるようになってきたようです。 

「三丁目の夕日」という映画はなかなかいい映画らしいですが、昭和30年代の東京は実は現代よりも東京の空気は悪かったそうです。高度成長で町工場などもふるに煙突から煙を排出し続けて規制も緩やかで空気も汚れていたようです。 

昔は良かったというノスタルジーも実はそれぞれの心の中の心象風景を美化していて今よりも昔がよかったと思いたがるのかも知れないですね。 

映画や写真で見る富士山もプロのカメラマンが実はその美しい瞬間を撮影するのに何日も待機しながら苦労して撮った写真ですから、普段雲や霧に覆われてよく見えない富士山よりもきれいなのは確かかも知れないですね。

  

ルンビニ

2007年12月13日22:42   3月31日(木)の続き 

 ルンビニにある日本の会社の経営する法華ホテルへ到着するなり、クシナガラで抱い た不吉な予感が的中した。そこでインド側の運転手ファルークと交代する筈のネパール側の車と運転手が来ていないのだ。 

さっそくカトマンズの旅行代理店に電話を入れる。家内が担当者と話すのだが、僕らの予約が入ってないだの、崖崩れがあって車が通れなくなっているだのと言い訳ばかりで埒があかない。おまけに、電話回線が話の途中で何度も切れたりする。 

 とりあえず、カトマンズの代理店と、ベルナーシとの間のやりとりで僕らの旅行日程の詳細を調べて貰うことにして、ファルークに頼んで仏陀の誕生の地を案内して貰う。 
  
麻耶夫人が仏陀を産みおとした、といっても仏陀は母親の脇の下から産まれて、その直後に天上天下、唯我独尊とのたまわったという誕生伝説がある。その仏陀の誕生したといわれている場所には仏陀誕生伝説の情景が彫られた石像が祭られていた。 

 アショカ王時代の石塔の遺跡もすぐ傍にあり、大きな木の根元に、横たわった姿の仏像が祭られていた。何となく由緒ありげなのでそこの地面に落ちていたその木の樹皮を拾いポケット に入れる。 
  
 その後ホテルに戻ると、電話でのカトマンズとの交渉は最終的に決裂してしまった。インド側の旅行代理店に雇われている運転手のファルークにカトマンズまで連れて行ってくれるように頼むが、彼は日暮れまでにはインドに戻るというネパールの滞在許可しか貰ってないという。 

 僕らがどうしたものかと途方にくれていると、たまたま出張で事務所に居合わせた法華ホテル海外事業部長の肩書きで八木さんという50年配の方が、フロントに出てこられたので相談にのって貰うことにした。 

 事情を説明すると八木さんの知り合いの会社から明朝6時半にバンタイプの車が迎えにくる手筈になった。ルンビニ ~ カトマンズ間約260kmの距離で車で6~7時間かかるそうである。その車の料金が日本円で一万円だという。インド、ネパールの物価事情を考えるとべらぼうな値段であるが、背に腹はかえられずにその値段で承知する。  

 ファルークと彼の息子とは一緒に記念写真を撮り、300ルピーのチップを与えて別れる。英語の話せないファルークとは意思の疎通もままならなかったが、朴訥な人柄で中学生の自分の息子に国境越えを経験させたかったというその気持がいじらしい。 

 僕らをホテルへ送り届けると、家のあるベルナ-シー以外の場所ではファルークは車の中で寝泊りしていたのではないかと思う。やせて頭が禿げ上がっているのでどことなく禿鷹を思わせる威厳のある風貌の男だった。

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○ハラ 2007年12月13日 23:30 あんらぎさん、 
私は海外へ行った、と言っても、団体での観光か、仕事での出張か駐在なのであんらぎさんの身に起こった事のような経験は無いです。 
そう言う意味では、順調に海外へ行って帰った、と言えると思います。 

旅行中のハプニングで飛行機が遅れたとか、悪天候で飛ぶはずの飛行機がキャンセルになって次の日の飛行機に乗ったというのはありますが、行く予定の所に行けなくなって困り果てた、と言う事もありません。 

そう言う意味では、あんらぎさんの方が貴重な体験をして居られますね。 
あんらぎさんの場合は二人っきりでしょうが、私の場合は、アメリカ国内でアメリカ人の同僚が一緒にいたり、団体では添乗員が居たり、後進国ではたまたまトラブルが無かったと言う事なのですね。 

旅行ではボン・ボヤージュならぬ、ボンボン(大阪弁の良えとこの息子)やっさ~、と感じた○ハラでした。 あんらぎ 2007年12月14日 12:04 ○ハラさん 
スケジュールを前もって立てて、チケットなども購入していても天候やら、飛行機の調子やらで予定がたたないことが旅にはつきものかも知れないです。 

一つの予定が狂えばその後の予定もずれたりホテル予約が取れなくなったりといろいろ大変です。でもまあ「なんくるないさ(どうにかなるさ)」で実際にどうにか無事に旅行日程も消化して帰ってこれたのはありがたいことでした。 

旅にはある程度のそういうどうにもならないことが起こるということは想定していたほうがいいでしょうね。イタリアに居た頃、ローマの民宿ホテルみたいな宿で朝食を食べていると日本人の若い女性(大学生で卒業旅行だそうでした)が僕らのテーブルに来て、日本に帰る安いチケットを売っている代理店を知らないかと聞かれました。 

彼女らはイタリア旅行を万全に予定を立ててやってきて、ローマの空港から日本に戻るのにフィレンツエで最後の晩を過ごしたのだそうです。それが、そこからの電車がストだか遅延かでその日に空港に行けなかったのだそうです。 

卒業式に出るにはすぐに帰らなければならないということで正規のチケット料金は彼女らの之までの旅行代金すべてより高い値段だったらしいです。もぢ安いチケットを買えなければその正規のチケットを買うしかないと半べそ状態でした。 

格安チケットというのはその当日は売ってないのがほとんどなんでしょうね。僕らも詳しくはわからないので何の役にもたちませんでしたが、帰りの日はなるたけ空港に近い場所に宿泊するということ、それにイタリアの鉄道を信用してはいけないという教訓を得たことかと思います。

  

クシナガラ

2007年12月12日21:22   3月31日(木) 

 クシナガラ政府直営バンガローをチェックアウトする際に、追加料金135ルピーを請求される。昨夜、部屋の料金は400ルピーだと聞いたが、こちらは代理店へ800ルピーを前もって支払ってあるので内訳が分からない。結局、家内のポリスを呼べの一喝で運転手のファルークが立て替えてくれた。ポリスを呼べの一言は結構効き目がある。僕にはなかなか言えそうにない含蓄ある言葉である。 

 僕らの旅行代理店は僕らから800ルピーも取っておきながら、ホテルには一番安い部屋の料金しか払い込んでなかったのだろう。「なにも心配しなくて大丈夫です。今度来るときは、一番季節のいい十一月に来てください、大歓迎します・・」などと言っていたベルナ-シーの旅行代理店のミスター・カーンの親切ごたしのスマイルが、何だか不吉に思えてきた。 

 クシナガラは仏陀の入滅した場所である。そこには、横たわった姿の仏像が安置されていた。ネパール国境に近づくにつれ、住民もどちらかというと、彫りの深いインド系の顔からモンゴロイド系の顔が増えてきたように思える。 

 車の中から葬列を見た。村境を車が走っているとき、白い布に包まれた遺体を戸板のようなものに担ぎ上げ数人の男たちが運んでいた。 

 インドとネパールとの国境を越えるといってもそう難しい手続きはいらなかった。国境線の手前にある事務所で簡単なパスポートのチェックがあっただけである。また国境を越えたといっても、そこは一つの小さな村のようなもので、すぐ隣にあるネパール側の建物の事務所で入国手続きが行われている。 

それにしても簡単なものでニューデリーの旅行代理店のアディヤカの助言で用意して持って行った係官に手渡したマイルドながらわいろ性の強い煙草も本当は必要なかったかもしれない。あるいは煙草のせいで簡単に通れたのかよくわからない。 

 ネパール側にある売店でビールを買い、国境通過を祝う。店の前にたむろしていた若者が僕が肩からかけていたバッグを見ながら指で指し示し笑っていた。そのバッグ一つでインドで何があったのかホーリーデー祭りで付けられた赤い染料が如実に物語っているのだった。 

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○ハラ 2007年12月13日 00:03 あんらぎさん、 
葬列と言えば私もルーマニアで葬列を診た事があります。 
トラックの荷台に載せられて、お棺の蓋が取ってあるので、顔も体も見えました。 
お爺さんだったのですが、死体を他人が、それも私のような通行人が見られるというのは、カルチャー・ショックを感じました。 

この前の八重山旅行の時、竹富島の喜宝院へ行ったら、遺骸を運ぶ屋形船の屋形部分のような物がありました。 
映画『パイナップル・ツアーズ』で、この屋形のような物で遺骸を運んでいるシーンがありましたが、屋根が着いているので、知らなければ「お祭りかな?」とでも思ってしまいますね。 
もっとも、列のみんなが沈痛な面持ちで進んでいる葬列と分かりはしますが。 

あめりかに居た時、葬列の車に出会いました。 
ライトを付けて、赤信号を構わず進んでいました。 
場所がケンタッキーの田舎だったので、信号無視しても問題は無かったのですが、アメリカはあんな風なんですかね。 
それと、やはりケンタッキーで、別の葬列の車に後ろから来られた事がありましたが、分からないので、道を譲らず、そのまま行きましたが、あれは譲るべきだったんでしょうか? 

世界中でいろんな葬式の形態があるようで、習慣を知らない者にとっては迷ってしまう事が多いです。 
失礼になるのか、構わないのか、未だに分かりません。 あんらぎ 2007年12月13日 10:44 ○ハラさん 
世界には死者を送りだす儀式がいろいろあるように思います。イタリアのルッカの古い建物には普段使う外ドアのほかにその3分の2位のドアがついてました。それはお葬式のときの出棺用のみに使うのだそうです。 

また、大家の農家を改造した別荘に連れて行って貰ったときに、表から地下室に入れてくれて箱の中にあった古い釘を何本でもいいからお土産に持っていきなさいと言われました。500年くらい古い家を解体したときに出てきた釘で1本1本が大きさも違い、先の方へ尖ってましたが、丸くない四角い手作りの釘でした。 

2本貰うと、もっと取りなさいというのでもう2本取りました。大家さんはちょっと困った顔をしてもっと取りなさい・・いやもうこれで十分ですから・・ 
偶数は棺おけを担ぐ人数で縁起が良くないのだと言って、もう一本手渡してくれたのでした。 

葬式の方法はその国、文化習慣でいろいろ違いはあるのでしょうが、死者を悼むという意味では根底のところでは一緒だと思います。それさえわきまえていればいいのではないでしょうか。 あんらぎ 2007年12月13日 11:06 ○ハラさん 
アメリカの信号無視する葬列の車のことですが、確かに昼間からライトをつけて何台も通るので最初は何だろうと思ったことがあります。一度は車の運転中の交差点で青信号を彼らが通り過ぎるのを待って時間を食ったことがありました。 

葬列ですから、一直線に関係車両が並んだ方が壮烈に見えると思いますので、ここはやはりおそうしきにどうぞ、いやおさきにどうぞと譲られた方がいいのではなかろうかと思われます。

  

2007年12月10日21:20  3月30日(水)の続き 
  
 その後、市内にあるヒンドゥ大学やモンキーテンプルを回って、ホテルで朝食。10時半にファルークの運転でサルナートへ行く。仏舎利(仏の遺骨が納められているという)、ストゥーパを見学する。堂内の売店で小さな仏像を買う。 

 隣にあるグプタ期の仏像のコレクションで有名だという博物館に入る。帰りにファルークに頼んで、シルク織物の工場へ行く。小さなデモンストレーション用の作業場に案内されて入っていくと、4人の男の織工が大あわてで電気を点けて仕事を始めだした。 

 部屋を出る際には、その工場の案内人に気付かれないようにジェスチャーでバクシーシを請われ、代りに金の糸を巻いた小さな棒を手渡される。展示即売のコーナーではカルカッタで40ルピーで買ったベンガル産の皮財布が150ルピーで売られていた。ここではシルクのテーブルカバーを購入する。 

 ホテルをチェックアウトする前にホテルのすぐ裏手にあるカーン旅行代理店で、ネパールでのスケジュールを取り決める。2時15分、クシナガラへ向け出発するが、息子を連れて行きたいというファルークの要望で待ち合わせの場所へ行く。中学生だということだが、ファルク同様、英語が話せない。 

 夜の8時半頃、政府直営のクシナガラ・バンガロー・ホテルへ着く。中庭には大きなテントが幾つも建てられていて、去年の暮れまでオウム真理教の信者や、麻原彰光ら400人がそこで生活していたそうである。自称、ガードマン兼観光ガイドという男が達者な日本語で話してくれた。ガイドはいらないかと訪ねられたが断わる。 

 400ルピーのエアコンも付いた部屋で、そう悪くもない。(旅行代理店には800ルピー支払ってある。)荷物を運んで貰ったときにチップをあげた男が愛想よく日本製の蚊取り線香を持って来てくれた。

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○ハラ 2007年12月10日 21:55 あんらぎさん、 
やっぱり観光客は金持ちと思われて、不当請求を随分されるようですね。 

カルカッタの40の財布が150! 
4倍とはいくら何でもふっかけられ過ぎですね。 

日本円に換算すれば安くても、インドにはインドの標準価格という物があるはず。 
ここでもやはり取れる所から取ろう。 

そんなふっかけ価格は徒労に終わらせないと。 あんらぎ 2007年12月10日 23:19 ○ハラさん 
そこはシルク布を織って売る実演販売なんかをするところで、やはり観光客がツアーで来るとことみたいだったですね。普通、自分たちで決めた観光にはそういうとことは入れないのですが、運転手のファルークさんが素朴な人柄で彼の知っている観光客が行かないような織物工場見学をしたかったのですが何しろ言葉が通じないので意志の疎通もままならない。で連れて行ってくれたのがそこだったのです。 

シルクの工場とはいえ、観光用の土産一般も揃えていて僕らがカルカッタの市場にあるお店で40ルピーで買った皮の長い財布が150ルピーで置いてあったので、内心はおお、カル買ッタで買ってよかった。財布もカルカッタが心もカルカッタという気分になりました。 

普通は団体さんの観光客が大勢で訪れて、その工場の作業風景も見た後で商品の置いてある工場直営とされるお店で買い物させられるのでしょうが、僕らは個人で突然訪れたので工場の電気も消えていて、作業している男の人たちも部屋に入っていくと、おいおいまだスタンバイさえしてないんだよ・・みたいに電気をつけてミシン作業を実演するふりをしていました。 

工場とはいえ、観光客に買い物をさせるのが目的のデモンストレーションをして売上につなげるという所だったようです。だから観光客用お値段だったんでしょうね。シルクの布も工場直営というのが売りみたいでしたが、実際はやはり観光値段だったかも知れません。