タイ・インド・ネパール旅日記(3)Yahooブログより転記

タイ・インド・ネパール

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2007年10月24日20:59 

3月12日(土)の日記の続き 

 午後は郊外に行く。岩山に作られた難攻不落と云われた~フォートである。王宮の別荘も兼ねていて、ろうそくの灯が天井に張り付められた無数の小さな鏡に反射して幻想的に輝く部屋等を見学する。まあ、ディスコなどにあるミラーボールの原型といったところだろうか。 

 そこの広場には背に客席をしつらえた3頭の象がいて象使いの案内で背に乗り、写真を撮って貰う。20ルピーであった。顔を撫でたら、皮膚は思ったより柔らかかった。  

 市内にある美術館、ヒンドゥー寺院をまわって夜の7時にホテルへ戻る。そのツアーの中にはインド人の参加者も結構いて、カルカッッタから来たという二人の若者とは席が近く色々話を交わした。二人とも兵士だとのことであった。 

 僕の職業を問われて、メガネの卸屋だけれど、インドでは商売にならないと云ったら笑っていた。何しろメガネをかけている人を見かけないのだ。驚くべき視力の持ち主の東京での友人であるパキスタン人を知っているが、かといってすべてのインド系の人たちが眼がいい筈もないのだろうが・・・ 

 他にもインド人の若いグループなどがツアーに参加していた。そのなかの女性に白人のように色の白い人が何人かいた。 

カーストに関しては無知に等しいが、上層のカースト程色が白いと読んだ覚えがある。これは古代にペルシャ人がもともと居た民族の征服者としてインドにやってきたからで、ペルシャ人といえば今でいうイラン人なのだろうから顔立ちはコケ-ジャン(白色人種)である。そのせいもあろうか色の白さはインドではある種のステータスシンボルらしい。 

ツアーの終わりはそれぞれの客をホテルの入り口で降ろしてくれた。僕らの泊まっていたホテルはかつてマハラジャの別荘がホテルになったもので、僕らを降ろすちょっと前にインド人の女性ガイドがその建物の歴史などを説明していた。 

そしてそのホテルの宿泊料金が一泊いくらだと説明するとツアー客のインド人の間から驚きの声があがった。宿泊費は日本円で1万円ほどであったが、部屋も広いうえにかつペア料金に朝食つきだったので日本のビジネスホテルと比較しても高い訳ではない。 

だが、それはインド人の平均月収以上の値段に相当する価格だったようだ。(あるいはそれが年収に近い値段だったのかも知れない)バスがそのホテルの入り口前に停車して僕らが下りるのを残りの乗客が眺めている間中、後ろめたい気分だった。特にバスの中で気軽に話していた若者二人に別れの挨拶をしたときの彼らのとまどったような驚嘆の顔つきがまぶたに残っている。(続く)

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○ハラ 2007年10月25日 01:01

あんらぎさん、 
収入の違いはどうしようもないですね。 

一時、中国人やフィリピン人、ブラジルやペルーなどいろんな国の人たちが日本に働きに来ていて小金を貯めて帰ったようです。 
今ももちろん滞在し続けてている人たちも居ますが、日本円で二十万円かそこらの金額でも、それを少しずつ貯めて、お国に持って帰れば結構な金額のようです。 

戦後の日本人も欧米に追いつけ追い越せで頑張った結果、外国に観光で行く人も珍しくなくなりましたが、一時は貧しい時代がありましたよね。 
今、為替レートとしては一ドル120円ぐらいですが、360円と思えば一ドルはずいぶんと高額です。 
中国が今、日本に追いつこうとしてますから、日本経済の栄華も今の内かも分かりませんね。 

あんらぎ 2007年10月25日 08:08 ○ハラさん 
僕がイタリアにいたときに中国から密入国をはかった人たちの遺体がコンテナから10数人見つかった事件がありました。また、スペインでもアフリカのモロッコあたりからの密入国をしようとして溺死した遺体が海岸に打ち上げられている写真が新聞に載ってました。 

為替相場の違いによる通貨格差と言うマジックは経済力のある国の人にとっては旅行などが安くあがるという恩恵がありますが、逆にいえばそこに住んでいる人たちが出稼ぎでそういう国々に出かけて稼いだ金を自分の国に持ち帰ったらかなりの大金になります。 

そういうわけで蜜入国するという単純な動機だけではないとは思いますが、その経済格差が動機になっているのは間違いないと思います。 

円が1ドル360円だった昔、沖縄ではドルを使ってましたが1000ドルあれば一軒家が建つと言われてました。単純計算しても36万円ですね。物価が当時は10分の1だったとして360万円では家が建ったというわけです。 

月給も沖縄の人間で100ドルだと高級取りだと言われてました。その当時のアメリカ兵の給与はわかりませんが、多分1000ドルくらいはあったかも知れません。アメリカと日本の経済格差は10倍くらいの感覚だった時代だったのかも知れません。 

それが30年ちょっとでは円が80円~120円あたりまで強くなったわけですから、国の経済力というものは社会の意識や個人の生活まで大きく変えてしまいます。 

いま、中国が日本の経済成長時代以上の勢いで伸びているようですが、そういうことでいえば中国の通貨が強くなっていくということでしょうから、中国も日本のように大きい変化をするのは間違いないでしょうね。

  

ジャイプール⑩

2007年10月23日19:21 

  3月12日(土) 

 ジャイプール駅の傍の政府観光案内所から出発する一日ツアーに参加する。駅近くの空き地は無数の汚いテントや掘っ立て小屋で埋ったスラムであった。 

 ジャイプールの旧市内はピンクシティーとも呼ばれていて、それは地元で取れる赤っぽい砂岩で作られた建物や城壁に囲まれているせいらしい。王宮、博物館、古代のジャンタル・マンタル(天文台)等を見学する。王宮の建物は風の宮殿とも呼ばれていて、王族の子女らが外からは見えないようになった秘密の格子窓から往来の賑わいが覗ける仕掛けのある廊下があった。 

 建物から建物へ移る途中の広場で突然家内の悲鳴がきこえた。びっくりして振り返ると、家内の足元に犬の様なものがまとわり付いていた。落ち着いて見ると肘から先の手足のない髪の長い7~8才位の少女が家内の周りをぴょんぴょんと飛び跳ねながら犬のようにまつわり付いていた。 

 恐らく少女はそのようにして観光客らに施しを受けているのだろう。それにしても物陰からいきなり手足のない少女に飛び出されまとわりつかれれたら、驚くのも無理はなかった。もっとも当の本人には悪気はなく、満面邪気のない可愛い顔で微笑んでいる。突然だったので僕自身も何もあげることもできないままにその場を離れてしまった。 

 休憩所にツアーバスが止まった際には、テケテケテンと太鼓の音がしたかと思うとバスの横にタオルケットのようなものを広げて、アクロバットが始まった。5~7才位の兄と妹のいわば越後獅子である。1~2分、兄の太鼓に合わせて妹が柔軟体操のようなものを披露した後、お金を貰いにバスの中に乗り込んで来た。 

 しかし、彼らにお金を与える人は少なくて、僕ももポケットに忍ばせていた幾つかの飴玉を手渡しただけだった。バスの発車寸前に窓の外から満面の笑みを浮かべて手を振る彼等に心を打たれ、もう一握りの飴を手渡したが、何故か今だに心残りである。(続く)




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クラウン ジョージ 2007年10月23日 22:11 そんな少女もいるのね。 
かわいそうですね。 

無邪気な子供たちに心打たれます。 ○ハラ 2007年10月24日 02:28 あんらぎさん、 
これが現実ですよね。 

私見ですが、キリスト教は他の宗教に比べて、分配しているような感じがするのに対して、南アジアの宗教はあまり富を分配していないような気がします。 

アラブの金持ちをはベンツを何百台も仕立てて、ご婦人方を連れてヨーロッパに大名旅行をして、数日間で何十億何百億もの買い物をするようですが、石油の利権を持っていない一般のアラブ市民はそこそこの生活で、やっと生活している風に感じます。 

手足に障害があったり、角兵衛獅子で生活を立てている子供が居るのを見て可哀想だとは思いますが、インドのマハラジャにしてもアラブの石油の利権を持っている金持ちにしても、自分の国の衛生などの面に、もっと金を使えば民衆からも喜ばれると思うのですが。 


あんらぎ 2007年10月24日 09:36 ジョージさん 
インドはやはり近代の目ではとても不可思議な所です。カーストがいろいろあって、物乞いもその中の一つなのかも知れません。 

嘘か本当かわかりませんが、そういう乞食集団の中では子供が生まれてくると将来人の同情を集めてお金を貰い易くするために手足を切断するとかいうことも何かで読んだ覚えがあります。僕自身は確かめようがないので嘘であってほしいと思っていますが、そういう乞食集団を統括する組織がニューデリーにはあるとか、それを撲滅しようというキャンペーンが新聞にありました。 


あんらぎ 2007年10月24日 09:44 ○ハラさん 
これはやはり不思議なことなんですが、そういう物乞いをする階層というか人たちが意外と明るいのには驚きました。 
カーストがあってその人たちの周りがみな似たような状態だから相対的に誰が金持ちだとか、物持ちだとかいうことがかえってないせいかも知れません。 

また、ヒンズーの教えの中に現世で功徳を施すと天国に行けるということですから、お金持ちなくとも庶民もそういう物乞いをしている人たちに何かを与えている光景は結構見ました。 

物を貰う方がかえって、貰う事によって相手が天国に行けるようになるのだからという逆の意味での心理も働くのか、ありがとうという表現はあまりしないような気がしました。 

中国ほどではないにせよ、インドもIT産業やら映画産業やら経済の発展がこのところ取り沙汰されています。僕が訪ねた頃のインドとも大分変化したのではないかと思います。 

そういえば、衛星放送やPCの契約、技術のトラブルなどで無料電話を掛けるとインドに繋がるケースがアメリカでは多いです。インドは英語が公用語ですし、人件費は安いしで電話サポートセンターを置いている会社がかなりあるようです。

  

2007年10月22日01:04 

(3月9日の日記の続き) 

 駅の裏側に広がる入り組んだキナリバザーの中を歩き回り、露店で白いシャツを買う。人が擦れ違える程の狭い路地をやせた野良牛がいきなり現われては擦れ違って行く。ミルクとテイーをそれぞれ高い位置から小さなカップに器用に注いでいる少年に飲まないかと声をかけられるも、カップの汚さに躊躇してしまう。 

 庶民の集まる市場は活気があり雑然としているがツーリスト用の店で買う予定のない高価な土産物を見て時間を潰すよりも何倍もの楽しさがある。 

 発車時刻4時55分の15分前に電車に乗り込むと、窓から白いスーツにレーバンのサングラスを掛けたホテルのハイヤー運転手ラジーが黒いスーツを着たホテル従業員らしき若い男と一緒にプラットフォームに立っているのが見えた。 

 僕らを確認してコンパートメントに入ってきたのはホテルの若い男で運転手の非礼を謝りに来たということであった。しかし貫禄のあるラジーに説教できる立場には見えずどちらかというとインドという国の貧しさを理解してくれと云うような口調の言い訳であった。 

運転手の案内した客が買ったものに対して幾らかのリベートが運転手に払われる仕組だったのかも知れない。或いはホテルもグルになって宿泊客に高価な土産物を売るように仕向けるシステムになっていたのかも知れない。 

だとしたら彼らは大きな見込み違いをしていたのだった。ホテルのハイヤーを雇ったのは日本円で3千円くらいの値段だったことと、現地バスツアーを調べたりする時間的なロスを考えてのことだったからである。 

しかも安い土産物屋なら何かを買ってごまかせたのかも知れないが、連れられて行ったのは日本円でも万単位の高価なカーペットや焼き物などを売っている店が主だったのだから、当然買える訳がなかった。 

 もっとも僕らの旅は土産はほとんど買わない。宿だけは安全面からちゃんとしたホテルなどに予約を入れているが、その分食事やら土産などといった余分なものには金を掛けられない。 

今回はそういう旅行者もいるということをラジーもホテルも知ったと思う。午前中に車の中にまで手を差し入れて商品を売る子供たちからアクセサリーを買ったのを、ラジーはこれは買い物をする客だと思ったのかも知れない。だが、それは300円程度の価格であって、万単位の土産品ではないのだ。確かにインドの貧しさには深く同情を禁じえないが何やら割り切れぬ感情を残したままアグラを発つ。 

 ジャイプール行きのジーゼル列車が止まる度に子供達が窓に押し寄せては1ルピーだのボールペンだのとねだりに来る。幸い飴玉をしこたま仕込んでおいたのでそれらを窓を少し開けて手渡す。中にはターバンを巻いたシーク教徒の子等も居る。どの子も一様に目が大きく、長いまつげで整った顔だちをしている。 

列車の窓から野性の孔雀が空を飛んでいるのを何度か見かけた。動物園でしか見たことのない孔雀は何と空を飛べるのであった。 

 ジャイプールには夜の10時に着く。車中、隣り合せの青年に日本から来たと言うとテレビでおしんが人気のあるドラマだと知らされる。明治時代の奉公にやられた子供の物語で、現実のインドの実状に似通った社会や精神風土が当時の日本にもあったせいかも知れない。 

 オート三輪車でホテルへ行く。以前は王宮の別荘だったという建物がタージグループに買い取られてホテルになったものだそうだ。遅かったのでルームサービスを頼み、就寝。 

*こう読み返してもどこがどこの町だったかの記憶はかなり怪しくなっている。記録を書いてなかったらどの町へ行ったのかさえきっと忘れてしまったに違いない。 

*ブッダガヤやルンビニでは安宿やバンガローなどにも泊まったが、インドでは概ね宿泊は治安のいいホテルを利用した。もと王宮の別荘だったというホテルなどでも日本の地方にあるビジネスホテル程度の値段だったように思う。 

*観光のルートは行った先々のホテルや地元の旅行社の主宰するツアーに参加するのが大体の日程だった。地元の人たちもそのツアーには参加していて色々面白い話なども聞けた。何より、日本で組まれたッアーよりは格安だったのは間違いない。 

*日本のツアーバスもインドのツアーバスもそういえば観光土産店に立ち寄るというのがパターンではある。個人客のハイヤーと言えどもやはり土産店へ連れて行って買い物させるというのが慣例になっているのだと思う。 
 バスのツアー客よりは高いものを購入するチャンスがハイヤー利用者にはよりあり得るということで、ラジーも何かを買うまではとやっきになっていたのかも知れない。


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○ハラ 2007年10月22日 18:45 あんらぎさん、 
観光地に行って、土産物を買うのは私もよくしていましたが、あまり高価な物を買っても、日本に帰って使わなかったり、使えなかったりで後悔してしまう事がよくあります。 

これは買うけど、これ以外は買わない、と決めて行かないと要らぬ物まで買ってしまいます。 

台湾で石製のタバコ入れを買おうと思っていましたが、いつも石製の灰皿とセットで売っているので、どうしようかと悩んでいましたが、結局セットを買ってしまいました。 
一緒に居た台湾の担当者が、「あんな高い物を買わなくても他の店に行けば安い値段の物があったのに」と言ってましたが、他の店に行って同じ物があるとは限りませんから、やはりそこが決断ですね。 

私は、インドへ行ったらサリーを買ってきて、とリクエストされていたのですが、ホテルから教えられた店まで行くのに、その店の位置がよく分からないので、結局買いませんでした。 

それと、あの時サリーを買っておけば良かった、とは今でも思ってません、迷子になって、風と共にハイデラバッドの町でサリーぬ、になってはかなわない、と思ったからです。 

あんらぎ 2007年10月22日 21:18 ○ハラさん 
僕らは大きな荷物はニューデリーのホテルに預けて、インド国内を回りました。お土産は荷物になるから最終地のニューデリーに戻ってからにしようと決めていました。 

ゴアの海岸では地元ではない内陸部から何週間かシーズンに泊りがけで来ているというう美少女からその地方のベッドカバーというか小さな鏡をついつけたきれいなものなどを買ったり、カトマンズでロンドンでは10何万円とするという曼荼羅を2万円で買ったりしました。安い細密画などもこれらはインドへ行ったという思い出になるようなものです。 

ツアーバスも土産店に寄るのは営業の基本というかパターンになってますが、ほとんど見るだけでそこでは買い物はしませんでした。 

初めて行く場所ですからどういうものがお土産になるのかわからないのでいきなり着いてすぐに買い物をはじめても荷物になるだけですから、ある程度どういうものが欲しいのかは行く前から情報を仕入れていた方がやはりいいみたいですね。

  

アグラ⑧

2007年10月21日09:28   

3月11日(金) 
 6時半、起床。ホテルのツアー用ハイヤーが975ルピー(3千円くらい)の料金だというので8時~4時の契約で雇う。運転手はラジーという名で車はインドでは珍しい白い中古のベンツだった。タジマハール、アグラフォート、ファーテプル・シクリを見学後、1時半に一旦ホテルへ戻る。 

 タジマハールはイスラム教徒の王様が亡くなった妃のために建てたものだそうだが、霊廟とは思えない白い王宮のような豪華さである。 

 アグラフォートはタジマハールとは川を挟んだ対岸にありマハラジャが居住していた王宮だという。ファーテプール・シクリもアグラ郊外にある王宮なのだが、水の便が悪いせいで見捨てられたのだそうである。 

 シクリへ行く途中の道路わきで2~3組のダンシングベアーを車中から見かけた。車が近づくと熊使いの合図で後ろ足で立ち上がり腰を揺らして踊りだす熊の芸である。スピードを出して走る車に乗った観光客相手の商売で、かなり効率は悪そうである。恐らく、時折は車を止めて見学する人もいるのだろう。 

 シクリ城の入口には、観光ガイドが何人も待ち受けていて断われずに案内してもらうことになった。季節によって、王宮内のマハラジャの居住家屋が違っていたことや当時の冷房の知恵などを教えて貰う。部屋のドアの桟に足を取られないようにといちいち腰をかがめ指で指し示すほど親切で丁寧なガイドで好感の持てる男性だった。 

 王宮の外には土産物を手に抱えた売り子らが大勢待っていて断りつつ走って逃げるように車に乗り込むが、車中に商品を差し入れてまで売り込んでくる。何か買わないと引き上げそうにないのでこれも仕方なく金属のビーズや装飾用の石をアクセントにした10連程の赤いネックレスを買った。ちなみに赤いのは本物のサンゴだとのふれこみで日本円で300円程であった。もちろん偽物だが、手のこんだ割には信じ難い値段であった。 

 ホテルでお昼を済ませ、チェックアウトした後に荷物をトランクに積み込み2時半から再びホテルのお抱え運転手ラジーとツアーを開始する。ラジーにマハトマ・ガンジー通りか、サダール・バザール通りへいくように伝える。庶民の生活の場だとガイドブックに書かれていたので興味を覚えた場所であった。 

 しかし、肝心のラジーは生返事をするばかりでなにやらこじつけてはツーリスト用の土産店へ案内したがる。連れて行かれたのは豪華なカーペットや壷などを売っている店で気安く手の出せるものではない。こちらに買い物をするつもりはないとその度にきつく言い渡すのだが、もう一軒だけ、もう一軒だけと連れ周りなぜか車の止まるところはそういう高価な土産物店の前である。 

 3~4軒目の店では遂に堪忍袋の緒が切れた家内がヒステリックにポリスと叫ぶのと同時に直接アグラフォート駅へ行くように強い調子で伝えた。ラジーもこちらの勢いに押されたのか素直に駅へ連れて行ってくれた。しかし、怒りの鎮まらないまま家内は駅からホテルのゼネラルマネージャーに電話で運転手の態度を報告する。 

 その後、荷物を駅構内の荷物一時預かり所に預ける際、係員にキナリバザーはどこかと尋ねると駅のすぐ裏手あたりがそうだという。ラジーによるとそこは4年前に廃市になったと云っていたので、あきらかに嘘をついていた訳である。 

多分知り合いの土産物屋で買い物をさせてその売上から幾らかのリベートが貰える仕組みになっていたのだろう。少し大げさに事を荒立てたかなと思っていたが、嘘をついてまでと思うとやはり頭に来るのだった。 (続く)

  

カジュラホ⑦

2007年10月19日22:41

三月十日(木) 

  朝6時に目が覚める。一時間程ベッドでじっとしていたがとうとう我慢できずに家内を部屋に残したまま一人でメインの西群寺院方向へ歩いて行った。夜があけたばかりなので、途中の野原のあちらこちらで朝のお勤め(ウンチ)をしている人を見かけた。  

 今日がシバ祭の最終日で各地からたくさんの人達がこのカジュラホにお参りに来るそうである。寺院の周りはすでにかなりの人出があり、おそらく昨晩からの泊まり組であろう、木の茎で歯を磨いていたり、道端で小麦粉をこねてチャパティを焼いていたりと、すでに賑わっていた。 

 それらの活動を見ているうちにだんだん気分が高揚してきたので早速ホテルに取って返し、家内を呼びに行った。寝ている場合ではない。寺院の前でジィーンと感動してもらいたい。今度はホテル前で客待ちをしていた三輪自転車に乗ることにした。車夫はパープーという名の痩せぎすのみすぼらしい男で、20代前半の少し頭の頼りなそうな人だった。わずか40ルピーで午前中一杯貸切りでいいということになった。 

 パープーは汚れに汚れたかつてはワイシャツと呼ばれたシャツにドーテーという腰巻を着け裸足のいでたちで、どーてなのか、いつでもにこにこしている。お祭りのマーケットで自分用のインディアンシャツを買うときに、同じものを2枚買って一枚をパープーに渡す。とても嬉しそうな表情をしたのでこちらも嬉しくなる。パープーを客席に乗せて僕が自転車を漕ぐ写真を家内に撮って貰った。 

 広場には、すでに市が立ち並び観覧車やら、移動動物園などの見世物小屋などもあった。2ルピーを払い、そこでホワイトタイガーを見た。とても簡素なメリーゴーラウンドなどもあり、子供たちはそれに乗って大喜びの様子であった。 

 寺院前にある沐浴場も人で混みあっていたが、寺院の中では小さなメタルの水を入れた容器を持った半裸の男達や鮮やかな色合いのサリーを着た女性達が押し合いへし合いしながら、寺院の階段を男女別それぞれのグループごとに順番に駆け上っては、礼拝の終わった順に反対側の階段から降りてくる。寺院の中から出てくる人たちは一様に濡れていて中では祈りと共に水の掛け合いでもしているのだろうか。 

 パープーの三輪自転車で一旦ホテルへ戻る。すぐにバスターミナルへ行かなければならないので、彼には表で待っていて貰う。ターミナルで別れるときにデリーのホテルから持ってきた備え付けの石鹸や、シャンプー、スリッパなどを与えると調子に乗って、僕らが被っている帽子や、サングラスまでくれるようジェスチャーで訴える。さすがに断わるがチップをはずんだので満足したと思う。 

 エクスプレスバスは一人150ルピーであった。12時にカジュラホを出発して4時にジャンシーに着く。アグラ行きの汽車の発車まで1時間ほどあったのでオートリキシャで近くのマーッケトとジャンシーフォートと云う所へ行く。そこでも小規模ながらシバ神のお祭りが行われていた。 

 ジャンシーを5時55分に出発、アゴラに夜の8時15分に着き、ムガール・シェラトン・ホテルにチェックインする。 

*どうも基本的なトイレは野糞のようである。シバの祭りということで遠くからやってきた人たちは野原のあちらこちらに朝もやに紛れてしゃがみこんで用を足していた。男女とも身につけているスカート状のものを広げて野原のあちらこちらにポツンポツンとうまい具合に様子がわからないようにしているのは見事であった。 

*寺院の前では野宿している人たちが食事の用意をしていた。小枝をかき集めて鉄板にお好み焼き風にチャパティを焼いていて、通りかかるとそれを僕らに差し出す人もいた。親切はありがたかったが、インドでは特に食べ物、飲み物には注意しすぎても足らないくらいだという話を前もって聞いていたので好意だけ受けて遠慮した。 

歯を磨く水から、シャワーを浴びて少し口に入れたせい、プールで泳いだせいでお腹を壊したということも本や知り合いから聞いていた。お店で出される氷にも気をつけた方がいいということで飲料のジュースやコーラはコップも危ないからということで氷なしで瓶から直接飲むことにしていた。サムアップというインド産のコーラはどこに行ってもあった。 

*水分補給には瓶詰めのコーラやビールもよく飲んだ。ミネラルウォーターもちゃんとした信用できるお店で買わないと行商で売り歩いているようなものには、ガイドブックによると普通の水をボトルに器用に新品のように詰めて売り歩いているのもあるという情報を読んでかなり神経質になっていた。その点、栓で蓋をされたコーラには気持ち的に安心感があったせいかと思う。 

地元の人間には免疫や慣れでなんともないものが、旅行者などには免疫がないせいで症状が現れたりすることもあるらしい。インドを旅すると大体において下痢症状を起こすのは間違いないようだ。

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○ハラ 2007年10月20日 00:03 あんらぎさん、 
私の元の会社の同僚で、古いご飯が糸を引いていて家族が誰も食べないので、捨てるのはもったいない、と、きな粉をまぶして食べた人間が居ました。 
この人はインド大好き人間で、インドやインドネシア、ヨーロッパ、どこへ出張に行っても現地の物を食べ、しかも腹具合が悪くならない、と言ってました。 

でも、やはりこういう人はたまたま病気にはかかりませんでしたが、現地の病気にかかる事はあり得るようで真似はしない方が良いな、と私は思いました。 

インド人やアラブ人が尻を拭くのは左手、と心得ていた私はこういう物売りが差し出す物を、どちらの手で差し出すか見ていて、両手や左手で差し出す物は遠慮していました。 

洗ってはいるのだろうと思いますが、信用という点では、日本の「白い恋人」や「赤福」だって製品の賞味期限を誤魔化していたのですから、インド人の手など、さらさら信用できません。 
左手で差し出しても、クソ食らえ、と思って居ました。 
あんらぎ 2007年10月20日 10:01 ○ハラさん 
「白い恋人」だの「赤福」だの紅白でめでたい話しかと思ったら、インド人もびっくりの賞味期限偽装工作なんですね。ミートホープといい、もう日本の食品も一応疑ってかかった方がいい変な時代になったようです。 

僕は消化器系統は丈夫ではないので、旅行に出ると結構気をつけています。なまものは口にしない。怪しげな屋台では食べない。旅行だからと普段食いなれないご馳走を食べない。 

昭和30年代以前に生まれた日本人には東南アジアなどでよく罹る肝炎に対する免疫があるそうです。それはその頃の日本人は畑に肥やしを施していてそこで育った野菜類を食べていて免疫が出来ているからだそうです。昭和30年以降生まれの日本人はそういう訳で、東南アジアなどの旅行で食べ物や人から肝炎に罹る率が高いのだそうです。 

完全無菌の雑菌にさらされないで育つとそういう弊害もあるしで、清潔好きにも限度があるのかも知れないですね。○ハラさんの同僚の何を食べてもお腹も壊さず、病気にもならないという方は体内にすでにそういう抗菌体質になっている方なのでしょうね。 

インド人がビール瓶を持って原っぱに行くのは用足しだとすぐにわかりますね。その水でお尻を洗っているようで、紙を使用するよりもお尻は清潔かも知れないです。でも手の方はその後洗っているのかどうか・・ 

何か食べ物を買うときはその人に手を洗ったかどうか聞くことがまず洗尻、いや先決ですね。