ワイオミング州(Yahooブログより転記)

カウボーイ心得

・・とタイトルにつけたが、わかる訳がない。 

ただ、カウボーイがカウボーイブーツを履いている理由を身に沁みて感じたことがあった。 

例のジレットの町外れに放置されている4頭の馬に週末に人参や角砂糖を持って会いに行っていた頃、大体サンダル履きだった。 

ある日、いつものようにサンダル履きで有刺鉄線の柵に近づいて餌をやっていると足の甲あたりに鈍い痛みを感じた事があった。 

それで、すぐに足元を見たのだけれど心配していた蛇の姿も小さな虫さえも目にしなかった。それが部屋に戻って横になっていると足の痛みもそうだが、心臓がドキドキと脈が早くなるのがわかった。胸さえも痛むのだった。 

きっと強力な毒虫か毒蛇に刺されたに違いないと頭の中は悪い想像で一杯になった。刺されたときにすぐ足元を見たのだけれどその時点ではすでに素早く逃げおおせていたのだろうと思った。 

呼吸も荒くなるし、ほんとうにこれで一巻の終わりかと思ったほどで冷や汗まで出てくる始末であった。その状態が30分ほど続いた。 

・・で頭の中ではなるほど、カウボーイも伊達にブーツを履いている訳ではないのだなと理解できた次第なのであった。 

ジーンズが青いのも毒蛇よけの染料で染めてあるからだし、キャラバンの厚い生地で作られているのも馬に乗ったり、屋外での作業でも簡単に破れないよう丈夫に作られているわけである。 

幅広のつばのカウボーイハットはやはり長時間の屋外作業には欠かせない日よけであるし、首に巻いたネッカチーフも虫などが首筋から入らないように塞いでいる.またベルトもズボンがずり落ちない役目を担っている。(ハァ~もっともだぁ~ 々) 

写真は左からロデオ(いろんな競技があり、それを称してロデオという)競技会場に向かうカウガールの勇姿。 

バーンツアー(納屋めぐりツアー)という博物館主催の100年以上昔の古い納屋めぐりに参加した際に見た巡回して馬の蹄鉄を取り替える生業の業者。小さなトラックの荷台に道具やそれぞれの大きさの蹄鉄を揃えて、牧場を訪ねては馬の蹄鉄を取り替えている。馬も毛づくろいをしてあげたり、足の爪を定期的にチェック、手入れしないと病気になるそうである。 

高校生ロデオ大会のミシガンから来たそこのロデオクィーン。残念ながら、その子は全米ロデオクィーンにはなれなかった。このようなブロマイドを作り、観客に配っては投票をお願いしていたのだと思う。裏には僕の名前と彼女のサイン入りのLoveという言葉が書かれている。ちょっと嬉しかった。 

毒虫の件もあって、スリフトショップ(慈善店)で中古のカウボーイブーツを買った。特に履く機会はなかったが、知り合いのパーティで僕がブーツを買ったという話をした。するとその人が僕がいよいよ西部の男になったと居合わせた人たちに大きな声で告げたので、期せずして拍手が湧き起こったのだった。 

もう少し、ワイオミングにとどまっていたら、僕もいっぱしの西部男になれたかも知れない。


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2007年09月01日
00:01
ジョージ 

カウボーイ、かっこいいね。 
私もそんな帽子をかぶる時もあるからわかる。 

確かにカウボーイはダテニそんな滑降してる訳ではないよね。 
みな理由がある。でも今回は勉強になったよ。 

いつも感心してます。 


あんらぎ 

ジョージさん 
荒馬乗りのロデオにもクラウンがつきものだとご存知でしたか。ジョージさんのプロフィールの写真とまったく同じ粉装をしてカウボーイハットを被っています。 

役割は道化てお客を笑わす・・というものではなく、ロデオに乗った人が馬から落ちたときなどや牛が暴れたときに助ける役目です。実際に牛に追いかけられて一目散に柵を乗り越えて間一発で助かったりします。 

また、大きな樽がロデオ乗りの競技場にあって、特に暴れ牛のときなどにその樽の中に入って避難します。その樽を牛が突き倒したりもしますが、牛の興奮が収まった頃に中のクラウンは樽から無事に出てきます。 

エイサーのチョンダラーの役割みたいなものですね。それもロデオで馬から落ちた人を助けたり、サポートしたりと重要な役割をしています。クラウンも伊達じゃできないですよね。 

2007年09月01日
01:57
あんらぎ 

○ハラさん 

ワイオミングあたりの牧畜業者には北欧からの移民が多いようです。それで、金髪に青い目のすらりと背の高い人が多いような気がします。 

カウボーイの服装だとか、ローハイド(皮で作った鞭や馬具、ズボン当てなどのことらしいです)などのカウボーイ用具などももともとはスペインあたりから来たものが多かったみたいですね。 

ワイオミングでは牛が主に牧畜されてましたが、その他羊やヤギもいました。特に羊の放牧はスペインのバスク地方の出身者が多いそうです。現在でも季節労働としてバスク地方からやってきて従事している人たちもいると聞きました。 

西部と言えば幌馬車ですが、これなども元々はヨーロッパから伝わった物でジプシーの馬車だったり、バスク地方で使われていたヤギの放牧用のワゴンだったりします。特にバスクのワゴンは現代のキャンピングカーの元祖のような気がします。 

博物館で見ましたが、幌をかぶせた馬車の内部は入り口にストーブが据え付けられて、台所用具も棚や引き出しに収まるようになっていました。テーブルも引き出して、足をインスタントに取り付けてできあがり、またベッドは馬車の一番前にあり、ベッドの下は引き出しになっていてこれも機能的に優れてました。 

外にも場所の両脇には水樽が据えられていて、薪を置く所や他の工具などをしまう場所なども付いてました。それに乗って、生活しながら羊を放牧していたようです。 

○ハラさんの書いているように牧畜業は24時間、一日たりとも家畜に餌を怠る訳にはいかないですから、一日のうちで休める時間はかなりあるかも知れないけれど、遠出の旅行とかはできないので世間知らずになる傾向は確かにあったみたいですね。そのせいで、頑固で保守的な風土になるのも多少は仕方ないところもあるような気がしました。 

馬の餌になる干し草をホースのも仕事だし、なかなか大変な業種だと思いました。 

2007年09月01日
03:28
○ハラ 

あんらぎさん、 
やはり幌馬車には色々工夫がしてあるんですね。 
生活の知恵、人間生きている内に身体と共に頭を使わないといけないという良い見本ですね。 

スティーヴ・マックイーンが映画で演じた実在の人物、トム・ホーンが縛り首になったのも、羊飼いの少年を撃ったという罪ですが、この裏には牛飼いと羊飼いの争いがそもそもあったと言われてる、と言うのを本で読みました。 
後からやって来て羊を飼う羊飼いに、恐れか見下しかは知りませんが、牛飼いの牧場主が好意を持っていなかった事から、端を発した水や草の取り合いだったのでしょうか。 

モンゴルは日本の四倍の広さで、人口は二百万人ですが、これも牧畜をしているから土地が広すぎて困ると言うのでは無いようです。 
馬(牛、羊、山羊、駱駝)がある程度の範囲の草を食べたら又次の草が生えているところへ移動しなければならず、それを一年に何回も繰り返すので、見た目は広くても必要な土地の広さのようです。 
日本で農業を止めて牧畜を始めるとしたら、とてつも無い広さの土地が居ると思います。 
牧畜は、アメリカとか、モンゴルとか、ステップ地帯で人が少なく土地が広いからこそ出来る商売ですね。 

2007年09月01日
08:26
あんらぎ 

○ハラさん 
馬車にもその用途によって色々あったみたいですね。幌馬車の車体がボートのようになっていて川を渡るのに便利だったとか、車輪に歯車をつけてその回転数で距離がわかるとかの工夫をしていたのもあったようですね。 

牧畜は確かに季節や雨季とかの条件によって牛を移動させて成長させたり、あるいはローハイドのようにテキサスから貨物列車のあるドッジシティまで運んでそこからシカゴまでは貨物列車で輸送するとかいろいろあって、その通り道の牧場主とかとのいさかいなどもきっとあったのではないかと思います。 

映画「シェーン」も牧場主と開拓移民の間での土地争いが発端になった実際にあったいざこざをもとに書かれた小説が原典らしいです。ジレットの地方新聞に昔のきょう、という歴史コーナーがあり、バッファローという土地で起こった牧場側のガンマンと農場との争いに18才で参加した男が1963年に亡くなったという記事がありました。彼は生涯その事件については語らなかったそうです。 

土地も広いだけでは砂漠だとか岩山、荒野だらけではほんとうに役に立たないものですね。地下に資源があるのは別にしても・・ 
ワイオミングは乾燥地帯なので草の成長が遅く、一頭の牛を飼うのに何エーカーとか必要だとか、他の雨の降る州ではその何分の一の土地で充分だとかありました。 

ワイオミングでは仔牛をある程度育てたら、土地の肥えた州の牧場に売っていたりしていたようです。 

あと、ワイオミングでも牧草を育てる場所は肥沃な土地に大規模のパイプに車輪の付いたものが水を撒いてました。そうして成長した牧草(アルファルファなども含む)を時期が来ると大型のブルドーザーくらいの大きなトラクターで刈ったのを巻き上げて一定の大きさの草の束にします。それが、牧草地のあちこちにポツンと横たわっていて、トラックで運ばれて出荷されます。草の少ない牧場ではそれを購入して家畜の餌にします。あと、ワインのコルクみたいな餌はビタミンだとかカルシウムだとかが含まれていてそれと並行して牛に食べさせていました。

  

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ジレットの町から東にI90号線を50kmか60km行ったところにSundance(サンダンス)という小さな町があった。 

これは多分偶然だと思うが、映画「俺たちに明日はない」のモデルになったサンダンス・キッドとブッチ・キャシディの方のサンダンスが収監されたことのある場所だった。キッドなんて名前はないと思うから、あるいはその町の名からつけた通名だったかも知れない。 

ちなみにGillette(ジレット)の町も日本の友人にあの髭剃りのジレットかと聞かれたが、名前は一緒だが別人でジレットあたりの鉄道を敷く調査に来た人の名前をつけたようであった。ジレットも僕が住んでいた頃は2万6千人ほどの人口だったが、50年代には人口3000人しかいなかったそうである。 

アメリカ自体歴史の浅いせいもあろうが、ワイオミングあたりの地名もその町に貢献した人やインディアンのつけた名前、もしくはそれを英訳した名前が多く使われている気がする。 

道路のナンバーにIがつくのはInterstateの略でこれは州間高速道路という意味である。50~60年代の州間高速道路の完成を待つまではルート66のようにロスアンゼルスからシカゴまで道路沿いのそれぞれの町の中を走らねばならない一般道が使われていた。高速道路は町をそれて走っているので昔ながらのモーテルなどは憂き目を見たものが多かったようだ。 

高速道路は州によっても多少制限速度が違う。今はどうか知らないがモンタナ州は制限速度がなかったそうだし、ワイオミングは確か75マイルだった。フロリダは70マイルである。でも大体の車が時速80マイル前後(130km)で走っていて5~10マイルほどのスピード超過はハイウェイパトロールも多めに見ているようだ。 

モンタナ州かユタ州かの小さな町で古びた建物の脇にその建物の説明書きがあった。かつての銀行だった建物で、そこはサンダンス・キッドに襲われた銀行だとあった。電線を切られて警察への連絡ができず、自転車で行員が知らせに走ったというようなことが書かれていたのを記憶している。 

おっと、ここまで書いてきて「俺たちに明日はない」はフェィ・ダナウェイとウォーレン・ベィティの出演したボニー&クライドのカップル銀行強盗をモデルにしていた映画だったような気がしてきた。 

Rain drops falling on my headの軽快な音楽に乗ってポール・ニューマンが自転車の曲乗りをしながらアン・マッグブローを自転車の前に乗せて走るシーンの映画はタイトルは何だったろう? 
ロバート・レッドフォードも出ていた映画だった。 

それぞれの町の間の連絡網もそれほど発達してなかった昔、広い西部では銀行強盗をしながら町から町へと渡り歩く犯罪も可能だったのだと実感したのは確かである。


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2007年08月29日
23:02
○ハラ 

あんらぎさん、 
サンダンス・キッドとブッチ・キャシディの映画は「明日に向かって撃て」です。 
私はこの二人の事にはあまり詳しくないのですが、最後にはボリヴィアで警官隊に囲まれて撃たれた、と本で読みました。 

一方「俺達に明日はない」の方は、本を2~3冊読みました。 
南イリノイ大学発行の本は詳しくて面白かったです。 
こちらはボニーとクライドの事で、最後はテキサス・レンジャーに蜂の巣にされて死に、二人が乗っていた車は「デス・カー」として、ラズ・ヴェガスの何とか言うホテルに展示されているのを、日本のテレビで見ました。 

捕まえようとしても毎回上手く逃げてしまうため、懸賞金に目がくらんだのと息子を助けるのを条件に、仲間の父親が密告して、二人が通る道筋に待ち伏せていたテキサス・レンジャーがマシン・ガンで、確か300発だったと思いましたが、撃ち込んだようです。 

未だ二人とも20才をチョッと過ぎただけの年齢でしたが、この時まで逃げおおせていたのと、強盗をして盗る金は少額なのに、簡単に人を殺してしまうため、「大衆の敵第1番(Public Enemy No. 1)」として、ブーバーFBI長官に睨まれたようです。 

2007年08月29日
23:58
Gandhi-Ganjee 

日本人でニューメキシコやワイオミング、フロリダに短期間で住んだ人って他にはあまりいないのでは。 
なかなかできない経験ですね。 
その前のヨーロッパ、アフリカもそうですが。 

2007年08月30日
09:24
あんらぎ 

○ハラさん 
さいざんすか、サンダンス・キッドの映画がやはり「明日に向かって撃て」で、ボニー&クライドの映画が「俺たちに明日はない」でしたか。 

原題は確か、二つの映画とも彼らの名前をそのままつけていたようですが、日本の映画配給社のタイトルのつけ方も冴えてますね。キーワードはどちらも「明日」ですが、「俺たちに明日はない」といいう表現で若い犯罪者の自暴自棄の心理をよく捕らえていてクライドの心が暗いどと思ってしまいます。 

これが、「俺たちに茄子はない」なら、八百屋で売り切れたかと思っちゃいますし、「俺たちに椅子はない」ならまだ和式スタイルにこだわる生活をしている方を思い浮かべてしまいます。「俺たちにドスはない」なら、更正したやくざかそれとも拳銃に切り替えたやくざを思い浮かべます。 

サンダンス・キッドとブッチ・キャシディの映画のタイトルは「明日に向かって撃て」というのもボリビアくんだりまで逃げ延びてしぶとく生きようとする二人の意志を感じますね。これが「あさってに向かって撃て」や「来月に向かって撃て」ならかなり間延びしちゃいますので、やはり「明日に向かって撃て」はいいタイトルだと思います。 

多分、彼らが活躍した時代というのは大恐慌の時代あたりで、銀行は貧しい農民から借金のカタに農場を取り上げたりしていたようですから、義賊ではないにしても銀行を襲うというそういう大衆のうっぷん晴らしもあって、割とそういう銀行強盗が英雄扱いされたk時代背景もあったのかも知れませんね。 

2007年08月30日
09:36
あんらぎ 

Gandhi Ganjeeさん 
ジレットには逢った事はないですが、炭鉱で取れた石炭を効率よく燃焼させる技術の指導に火力発電所に来ている日本人がいるという話は聞いた事がありました。 

また、これは新聞の記事で読んだのですがでロデオのプロの荒馬乗りになりたいといいう若い日本人男性がデンバーで修行しているというのを読んだ覚えもあります。 

あと、こんな所にという以外な場所に住んでいるのは日本に駐留していたアメリカ兵と結婚した日本人女性でしょうね。実際にお会いしたことはないですが、割と散らばって生活なさっている方がいらっしゃるようです。 

イタリアやスペイン、アフリカはひと月ですがきっかけがあって思い出すことなどがあればそれらも書いてみたいと思います。スワジーランドには海外青年協力隊で派遣されていたアメリカ人をめとった日本人家庭にお世話になったのですが、ここでも面白い体験をしたけれど、書くとその方たちのプライバシーを傷つけてしまうことになるので躊躇していることなどもあります。イタリアもそうで、どうしても知りあった方たちのことやそのエピソードがあるいは人を傷つけることになったりする気もするしで、なかなか書くのは難しいことなどがありますね。 

仮名ならいいのかと思ったりもしますが、書かれた当人にもし読まれたら当然わかりますからね。もっともイタリア人などは書かれても日本語を読めないので知らん顔をしていればすむことではありますが・・難しいです。

  

デビルズタワー

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左の岩山の写真に見覚えのある方は多いと思う。 

デビルズタワーといって、サウスダコタ州に近いワイオミング州の北東部にある岩山である。S・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」にUFOの着陸する秘密基地として使われたことで一般にも名前が知られるようになった。 

レンターカー会社の送迎のパートをしていたおじいさんの孫がその映画のエキストラに出たのだそうだ。白い服をつけて顔を覆うマスクをしているのだが、本人にはそれが自分だとわかりあれだあれだと言われるそうだが、爺様には誰だかわからないと言っていた。撮影には地元のエキストラも大勢使ったそうだが映画とはそんなものかも知れない。 

そのデビルズタワーだが、カップケーキを逆さまにした形に良く似ている。何万年前かに地中からマグマが噴出、その後冷却して固まったものらしい。 

そのまわりをえぐられたような形からインディアンの伝説が生まれた。うろ覚えだが、大きな熊に追われたインディアンがそのデビルズタワーの上に逃げ込んだら、大熊(とてつもなく大きい)はデビルズタワーの周りを両手の爪でかきむしったという話らしい。インディアンの遺物も頂上では見つかったというから何らかの宗教的儀式などが行われていたのかも知れない。 

テディ・ベアの名に使われているアメリカ大統領だったテディ・ローズベルトが確か、そのデビルス・タワーをアメリカ最初の国立公園に指定している。デビルズタワーの岩山の裾には遊歩道があり、一周できるようになっていた。 

公園入り口にはプレイリー・ドッグ(大平原の犬)という名の小動物の繁殖地帯もあった。ドッグという名だが、実際は地リスの仲間である。テリトリー内への侵入者や危険を知らせる際に出す鳴き声が甲高いケンケンという声で犬の鳴き声に似ていることから付いた名前らしい。木のない太平原では樹上生活ができないので地中に穴を掘って集団で生活している。穴は縦横無尽に掘られているらしくトイレや子育ての部屋などもあるらしい。 

プレイリー・ドッグの掘った穴に足を取られて骨折する馬もいることからカウボーイには嫌われているようだ。 

真ん中の写真の骨組みだけが残った丸太小屋はデビルスタワーに行く途中にあった。かなり古いようだ。 

西部開拓時代、ホームステッド法というのがあった。早い者勝ちで西部に開拓に出かけて開墾したらその土地が自分の物になるという法律だったと思う。英語のレッスンでその話題が出たときに、西部に来るのが150年ほど遅くて残念だと言ったら先生が苦笑していた。

  

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ワイオミングのジレットという町は田舎町であった。 

一番近い大きな町はお隣のサウスダコタ州にあるRapid cityで確か230kmほど離れていた。国際空港のある町は南に500km以上行ったコロラド州のデンバーで、東京から京都間の距離に相当していたようだ。 

町を一歩離れると、もう大平原である。雨の少ない乾燥地帯なので背丈の短いペンペン草がはえる程度の荒野が延々と続く地帯であった。 

町はずれの有刺鉄線で4~5kmほど囲まれた場所に4頭の馬が飼われていた。というより、年取った馬たちでその囲いの中に誰の世話も受けずに放し飼いされていたといった方がいいかも知れない。道路を挟んでもやはり大平原で、そこにも馬は生活していたが、有刺鉄線のそばで草を食べているのを偶然見て、車を道端にとめて歩いて近づいて行ったのが彼らとのお付き合いの始まりであった。 

もっとも人懐っこい馬が白と灰色の中間色をしたエド(何となく気品があり、リーダーだった。かつて「馬が喋るそ~んなパカな・・というアメリカドラマがあったのにちなんで主人公の馬の名、エドとつけた。正式にはエド・ムラサキという)と名づけた馬であった。餌を与える訳でもないのに、僕らが近づくと喜んだように鉄線の上から顔を出して愛嬌を見せるのだった。 

その他に、トゥッティ(歯を見せて笑うのでToothから)と名づけた馬は茶色の普通の馬であったが、1年近く週に一度人参や角砂糖などを持って訪ねている間に体中の毛が茶から白毛まじりの色に変化していった。 

ポニーのように小さな体で一番大人しく4頭の馬の中でも格下の馬がショーティ(一番小さいので)である。 

唯一の雌がマリリンである。彼女だったと思うが、2回か3回目かに会いに行った際にお尻をこちらに向けて尻尾をおっ立てたと思うやいなや、糞を数個ポロリポロリと僕らに向け放出したのである。多分、ここは私たちのテリトリーなのよ、何よあんたたちは・・と糞害いや憤慨していたのかも知れない。 

でもマリリンが一番頭が良いように思われた。彼女はどうやら馬とロバの混血馬のようで、体はどことなくずんぐりしていて、マリリン・モンローの名に似つかわしい訳ではなかったが、一応メスなのでマリリン、糞をもろに出したので正式名はマリリン・モロと名づけたのだった。 

なお、トゥッティの正式名はトッティ・トゥランティである。これはウチナー口では取ったのかい?取らなかったのかい?という意味で人参を与えてもいかにもまだ食べてない振りをしてショーティに人参をやろうとすると追いまわすので名付けた名であった。 

ショーティにも姓はあった。正式名はショーティ・カマンティである。カマンティとはやはりウチナー口で食べなかったのかい?という意味である。体も小さく、格も一番下なのでなかなか餌を食べれない所から名付けた。大人しく、恥かしがりやで自分からは積極的に餌を食べには来ない性格だった。 

毎週末のように人参や角砂糖を持って会いに行った。馬たちも僕らが囲いに近づくと遠くから見つけては駆け寄ってくるようになった。 

ところで馬も恥かしがることがある。一度、エドが僕らに駆け寄ってくる途中に足を滑らせて転びそうになった。喜び勇んで駆け寄ってくる最中に馬ともあろうものが滑って転びそうになったのである。 

その時、エドの取った態度が非常に可笑しかった。彼はその場で何もなかったように地面に生えている草を食べるふりをしたのである。しばらくそのあたりの草を食べる振りをしながら、こちらの様子を伺い、笑ったり中傷してないことを確かめたのちにやっと手渡しでやる人参を食べにやってきたのだった。 

真冬のワイオミングは雪は少ないが、マイナス以下の気温に風が強く吹く時があった。その中を彼らは炭鉱で使う大型トラックの直径が3m程あるタイヤを積み重ねた風除けしかないその場所で暮らしていた。 

寒い、風の中をじっと立っている姿はワイオミングの冬の生活の厳しさを象徴するような風景であった。時に寒波に襲われると戸外で飼っている牛などには立ったまま凍死するものもいるそうである。 

僕が馬の年齢を知る由もないが、彼らはきっともう若くない馬たちで現役を引退後にその柵の中で放置されていた馬たちだったのだと思う。柵の中は馬が4頭過ごすにはそれ相当の広さだったのだろう。柵の中には小さな溝があって、そこを水が流れていたから世話をする人もないまま、自然に生える草を食べ、水を飲みそこで余生を送っていたのかも知れなかった。 

馬はたまたま一度ロデオで隣同士になった他所の馬のことを忘れないという。さらに何年たってもその飼い主を覚えているというが、彼らも僕らのことをまだ覚えているだろうか? 

*写真は左からエド・ムラサキ、トゥッティ・トゥランティ 
真ん中の写真はマリリン・モロ 
右側の写真はトゥティ・トゥランティにショーティ・カマンティ


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2007年08月25日
03:48
○ハラ 

ワイオミングと聞くと、子供の頃見ていた「ララミー牧場」というテレビ映画を思い出します。 

三十年ぐらい前、アメリカ西海岸を団体で観光旅行した際、飛行機の中でアメリカ人のオバアチャンと話が合い、このオバアチャンがワイオミングから来たと言うので、「じゃあ、ララミーが有名ですね」と言ったら、「あら、シャイアンの方が大きいのよ」と言われ、返答に詰まった事があります。 
ララミーしか知らなかったんですよ、その頃の私は。 

このオバアチャン、ジャンとディーンの歌「パサディナのオバアチャン」みたいな小柄な人でした。 
カリフォルニアかと思っていたらワイオミングだったので以外でした。 
まあ、自分で勝手にそう思い込んでいただけなんですが。 

この馬の写真を見ていると、マリリン・モンローとクラーク・ゲーブルの映画「あんらぎ馬と女」を彷彿させますね。 
二人とも、この映画が遺作になったようです。 
マリリン・モンローはジョー・ディマジオと新婚旅行で日本に来て、広島の宮嶋が見える旅館が気に入って泊まったそうです。 
今でもその旅館に写真かサインかがあるらしいです。 

馬は賢い動物で、また犬と並んで忠義の動物に上げられますね。 
塩原多助とアオ、硫黄島で戦死した西中佐とバロンなど主人の言う事をよく聞き、ある時は主人を助けるようです。 
モンゴルで、友人のゲルを尋ねて馬乳酒を腹一杯飲み、グデングデンになっても乗ってきた馬に乗りさえすればチャンと言えに連れて帰ってくれるという話を聞きました。 

熊本では馬刺を食べるようですが、駐在事務所のアメリカ人にこの話をしたら、「何と! 友達を食べるのか、日本じゃ」と呆れてました。 
馬は美味いとは、私はこの時言えませんでした。 

2007年08月25日
11:38
あんらぎ 

○ハラさん 
ララミ~ ララミ~ 
白い雲が浮かんでる ここは西部の大草原 

のテーマソングに乗って始まる「ララミー牧場」懐かしいですね。ララミーの町はシャイアンの西にあり、デンバーからジレットに行く道からは外れているので行ったことはないですが、大学町のようです。そして昔ララミー砦のあった場所はシャイアンの東にあり、今は昔の様子を伝える観光名所になったいます。 

シャイアン自体もそう大きな町ではないのですが、ワイオミングの他の町が小さすぎるので大きく感じるのではないでしょうか。 

ワイオミングで思い出すのは青い空と様々な形をした雲です。あれほど青い空は滅多に見られず、その中に浮かぶ白い雲は人の顔や動物の顔だったりで、ずっと見ていてもあきないほどでした。 

これはワイオミングが確か、2000mほどの高原なのと何か関係があったのかも知れません。ワイオミングから海抜30~40mのフロリダに移ったさいに車で移動したのですが、山を降りた意識がありませんでした。これは緩やかなスロープになっているので2000mの高さから低い土地へ移動したという感覚がなかったのかも知れません。 

マリリン・モンローが泊まった宮嶋の旅館にとっては彼女のサインは家宝ですね。そういえば指圧の心は母心の浪腰何とかさん(徳次郎?)もモンローを指圧したことで名をあげた方でしたね。 

ルッカに住んでいたときに聞いたロバのエピソード(レンガを積み出し港まで運べと言われ道を知らないと駄々をこねたらロバが道を知っているからと言われた子供の話)からも馬やロバは案外賢い動物なのが伺えました。 

ゲインズビルの群祭りのコンサートにもナッシュビルから女性の5人グループのカントリーを歌うグループが来ていて、日本のコンサートから帰ったばかりだが、日本では馬を食べると少し冗談気味に憤ってました。 

でもちょっと前にニューヨーカーの全面広告でアメリカは馬を食用にアジアなどに年間2万5千頭輸出しているのを禁止せよというのがあったので、アメリカ人は自分は馬は食べないが、他所の国の人が勝手に食べる分を輸出するのはいいということなんでしょうね。

  

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ワイオミングのジレットという人口2万6千人ほどの小さな町に2004年から2005年にかけて14ヶ月ほど暮らした。 

その時に町はずれにCAM-PLEXというロデオ競技場や劇場などの設備のある場所で全米高校生ロデオ大会が2年連続して開催されたのに出かけたことがあった。 

これは牧畜業の盛んな州の高校生たちが全米各地から集まって荒馬乗りのロデオ競技や、ドラム缶を並べたコースを早く走ってタイムを競う競技、羊を捕まえて足をロープで縛る早さを競うもの、仔牛を投げ縄で捕まえ押し倒し、やはり足をロープで縛る早さを競う競技、群れから離れそうな牛を馬に乗り元の群れに戻す競技などがあった。 

荒馬乗り、仔牛をロープで捕らえ縛る競技以外のものは女子高生も参加していた。 

さらに面白いのは会期中(2日間だが)にロデオクィーンコンテストが行われていたことだった。これは各高校から選ばれたクィーンの全米大会と行ったところで、アメリカならではと思ったのは、それぞれのクィーンが自分のブロマイドを観客に配り、サインをしながら売り込むのである。多分、観客の投票もその採点に大きく影響していたのかも知れない。 

僕もブロマイドにサインを貰い、一緒に写真を撮ってもらった。 

やはり荒馬乗りには危険がつきまとうようで、右手の手綱がからまって手から脱げずに馬の動きにあわせて人形のように振り回されている高校生なども見たし、馬から落ちて首にコルセットを巻かれて救急車で病院に運ばれる生徒もいた。幸い、大した怪我ではなかったと翌日の新聞で知った。 

参加者は牧畜業者の子弟なのだろう。自分たちの馬を大型トレーナーに乗せて親子で全米各地からやってきたようだった。CAM-PLEXにはそれらの大型トレーナーやキャンピングカーが駐車でき、電気や水道が使える設備が施されていた。そのロデオ開催中はCAM-PLEXに小さな町が出来るのである。


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2007年08月23日
23:59
○ハラ 

あんらぎさん、 
私もアメリカ滞在中の出張の一つの楽しみは、オクラホマとかテキサスとかの南の方の州へ行く事でした。 

その辺へ行くと、牧場があり、頼めば馬にも乗せてくれると聞きましたが、私は乗った事はありません。 
でも、小さな子供がカウ・ボーイのような人にロープを持って貰って、牧場内を小さく回って体験乗馬しているのを見る事がありました。 

リバ・マッキンタイアとかオリヴィア・ニュートン=ジョンとかのカントリー歌手が牧場を持っていて馬と一緒に映っている写真を見て良いなあと思っては居ましたが、与那国馬やモンゴル馬に比べ、やはり実物のアラブ馬は大きいです。 
せいぜい馬頭琴の音を聞く方がまだ背丈に見合っているかな、と思います。 

先頃亡くなった、スーパーマン役のクリストファー・リーヴは乗馬中に落馬して身体障害者になったそうで、あのニュースを聞いてから馬に乗る夢は捨てました。 
馬に乗るのはカッコ良いと思うのですが、落語家で無い私にはオチは要りません。 

2007年08月24日
10:33
あんらぎ 

動物好きの野生のエルケは馬を2頭、ポニー1頭、水牛3頭、イミュー(駝鳥に似た鳥)1羽、犬1匹、猫3匹、鶏10数羽、うさぎ10数羽を牧場の一角を借りて養ってました。 

その牧場が売却されたせいで、飼っていた動物を分散して売りにだして今は3匹の猫に2羽の鶏、5~6匹のうさぎだけになりました。 

その彼女の馬に一度だけ乗せてもらったことがあります。彼女が馬のくつわを引いて100m位の距離を歩いただけですが、結構揺れるし腰にきそうな感じでした。ながながと書きましたが僕も馬に乗ることはあきらめることにしています。馬とはうまが合うのですが、うまいこと乗りこなす自信がない。落っこちてほんと首の骨でも折りかねないです。さっそうと乗るにはかなりの時間と手間をかけねばならないし、馬は見るだけでも結構楽しめるのでそれで満足です。 

高校生ロデオを見ていて、結構危険なことを高校生にさせるものだと思いました。 

馬がなぜ暴れるかというと、馬の下腹あたりに帯のようなものを巻くので、多分それが痛いのかかゆいのか不快感から解こうとして暴れるみたいです。時間一杯乗りこなしたら後ろからそれを取り外すと、それまで暴れまわっていた馬がいきなり大人しくなります。 

牧場も訪ねたことがありますが、もう2才くらいの女の子でも馬に乗り始めてました。それなりの鞍があって、結構乗り回してましたが、もちろん馬も訓練も行き届いた大人しい馬を使っているのでしょう。 



2007年08月24日
11:53
○ハラ 

モンゴルの遊牧民は、馬の上で生まれ馬の上で死ぬ、と言うようです。 

ほんとに小さな子供の内から馬に乗せ、日本で言う幼稚園ぐらいではもう立派に馬を乗りこなし、日本から体験乗馬に行く人達をせせら笑っているようです。 
日本の四倍の面積がありながら人口は二百万人ぐらいしか居ないモンゴルでは、これは生活上必要だからですが、アメリカの高校生も牧場の息子や娘だとこれと同じで、馬は乗って当たり前、難しい事をやって見せて一人前をアピールして居るんでしょうか。 

アメリカの牧畜業の各家庭がこのロデオ大会で腕前を披露して技術を向上させ、また次の世代に受け継いでいる感じがします。 
ある意味、生活に必要な知恵ですかね。 
カウ・ボーイ(ガール)はその腕前、心意気を買う商売でもありますね